名前 |
慈眼寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0274-87-2516 |
住所 |
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評価 |
4.2 |
こちらには幕末、上野の山に立て籠り、最後まで官軍に抵抗した彰義隊の隊長であった、天野八郎の墓碑があります。
大井田林太郎(のちの天野八郎)は代々続く庄屋の家に生まれましたが、青年時代から正義感が強く、非道な高利貸しのもとへ乗り込んで、借金の証文を取り上げ焼き捨てた…などという豪快な逸話が残っています。
嘉永6年(1853年)ペリー浦賀に来るとの飛報は下仁田の奥磐戸まで届き、熱情型の林太郎は、矢も盾もたまらず江戸に向かいました。
林太郎は学問もありましたが、尊皇を唱えて幕府を倒そうとする薩長には反感を持っていました。
江戸では考えを同じくする人々と交流し、名も天野八郎と改め、幕末の風雲に身を投じることとなりました。
故郷の磐戸村のアマノイワトに因んだと言われています。
慶応3年(1867年)大政を奉還した徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いの敗北のあと、上野寛永寺に蟄居。
これに憤慨した一橋家の家臣らは檄を飛ばし、同志を糾合。
渋谷誠一郎を隊長として、彰義隊を結成しました。
このとき八郎は副隊長となりました。
慶喜が寛永寺から水戸へ移ることになり、彰義隊は警護を申し出ましたが、拒まれて置き去りとなりました。
その時、すでに大村益次郎に率いられた官軍は、伊藤呉服店(松坂屋)に司令部を置き、攻撃の準備に入っていました。
一方、彰義隊では内紛から隊長の渋沢誠一郎が部下に斬りつけられて脱落。
代わって天野八郎が隊長となりました。
いざ戦いの火蓋が切られると、彰義隊は近代兵器を備えた官軍に押しまくられ、最後は散り散りとなって敗退しました。
八郎は危ういところを脱出し、本所の鉄砲師炭屋文二郎のもとに潜んでいましたが、密告されて包囲され、ついに捕らわれの身となりました。
そして明治元年、同志に見守られながら牢内で寂しく亡くなったといいます。