名前 |
加藤司書墓 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.7 |
平成29年6月23日参拝文政13年3月5日(1830年3月28日)、福岡藩中老職の加藤家9代当主加藤徳裕と側室の尾形友花との間に生まれる。
天保11年(1840年)に遠縁である大老職の三奈木黒田家からの養子だった加藤家10代当主の義兄加藤徳蔵(黒田溥整)が実家に復籍して三奈木黒田家の家督を継いだことで当時11歳の司書が加藤家11代目2800石の家を継ぎ、福岡藩の中老の位列に加えられる。
嘉永6年(1853年)7月、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航した際、長崎港警備を勤めていた福岡藩は会議の末、藩主黒田長溥はこの重大局面を切り抜けられる者は司書をおいて他に居ないとして、司書は藩命を帯び、藩士約500人を率いて長崎沿岸の警護にあたることになる。
司書は幕府外国奉行の川路聖謨に助力し、黒船の艦長達の対応に当たる。
水と炭を求める相手側に対し、水のみを与え、開国を求める要求にも下手に出ること無く、厳然な態度で対応した。
安政3年(1856年)、司書は藩の執政に就任し、義兄の後押しもあり尊皇攘夷派の中心人物となる。
元治元年(1864年)7月、長崎でのロシア艦隊入港以来、外国の襲来を懸念していた司書は以前に担当した製鉄事業で注目していた犬鳴谷に有事の際に藩主を匿う避難所の建設を提案、黒田長溥もこれを承諾し、犬鳴御別館の建設が始まる。
その後、京都で起こった禁門の変に際し、福岡藩は藩兵約500人を禁裏守護のため京都へ派遣することになり、司書がこれを率いて福岡を発したが、直後に第一次長州征討が決まった為、派兵は中止となり福岡に引き返した。
11月、高杉晋作が筑前入りした際に野村望東尼の住む平尾山荘で月形洗蔵、早川養敬、中村圓太らと共に会合し、七卿の九州下りと薩長両藩の融和などを話し合う。
12月、第一次長州征討に際し、司書ら勤王派は黒田長溥の命を受け、長州周旋に当たる。
司書は建部武彦・月形洗蔵・早川養敬らを連れ、幕府軍の本陣があった広島まで赴き、成瀬正肥と田宮如雲とに密かに接見し交渉した。
その後、広島城の大広間にて藩代表による作戦会議に参加し、薩摩藩の西郷吉之助と共に総督徳川慶勝に謁見にした。
司書は藩主・長溥が総督に宛てた「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という親書を提出し、現状を細かに説明した上で「今は挙国一致を以て外敵の襲来に備えるべし。
」と進言した。
その後も二人は懲罰案や譲歩案などの建議書を提示して交渉し、総督に征長軍解散を決めさせることに成功する。
征長軍解散の結果、長州藩の三家老(国司親相・益田親施・福原元僴)の切腹のみで決着することとなり、必要以上の人命が失われることは避けられた。
この結果に感激した司書は宿舎に戻った時に「皇御國(すめらみくに)の武士(もののふ)はいかなる事をか勤むべき、只身にもてる赤心(まごころ)を君と親とに盡(つく)すまで」と筑前今様を書き留め、その場で2度歌った。
また勤王派はこの時、長州にいた三条実美ら五卿を説得し、大宰府の延寿王院に移したことで、筑前太宰府は勤王志士達のメッカとなり、坂本龍馬や中岡慎太郎も大宰府へ五卿を見舞いに訪れている。
司書達は西郷吉之助や高杉晋作と密談を行い[1]、薩長同盟の実現に向けて活動し、福岡藩は尊皇攘夷の急先鋒とされ筑前勤王党の知名度も飛躍的に上がることとなった。
慶応元年(1865年)2月11日、司書は征長軍解兵の功績を賞じられ、家老に昇進した。
藩内には賛否両論あったが、義兄の播磨の後押しで実現したが、佐幕派の3家老が一斉辞任して対抗するなど対立が強まった。
5月、筑前勤王党は穏便に攘夷を進めようとする加藤派と過激な行動を取る月形派に分かれて内紛を起こすようになっており、暴走していた勤王党員が「司書は優柔不断な藩主を幽閉し、長州周旋に奔走し、長州藩主毛利敬親と面識のある黒田長知を擁立して、佐幕派を排除し実権を握ろうとしている。
」と言い回った。
これまでの勤王党の活躍を面白く思ってなかった佐幕派はこの事を聞き、加藤司書を非難し黒田長溥に報告した。
これに対して、加藤司書も黒田溥整と連名で「上下一致、人心一和して過激を抑え因循を奮発することが肝要である。
」という内容の建白書を提出したが、これに黒田長溥はこれに激怒して司書は家老の職を三ヶ月で罷免される。
さらに幕府が長州再征討を決めた為に勤王派の周旋活動の功績が否定された結果、佐幕派が復権し、形勢が逆転となって勤王派弾圧の動きが強くなった。
これにより勤王派140人余りが逮捕・監禁され、その中でも加藤司書以下7名が切腹、月形洗蔵以下14名が桝木屋で斬首、野村望東尼以下15名が流罪の大粛清に至る(乙丑の獄)。
慶応元年(1865年)10月25日、天福寺にて切腹。
享年36。
「君かため盡す赤心(まごころ)今よりは、尚いやまさる武士の一念」と辞世の句を残した。
福岡市博多区の聖福寺の塔頭寺院 節信院に墓がある。