事故車両の車輪が展示してあります。
八高線列車正面衝突事故モニュメント / / .
終戦間もない頃に、橋の上で正面衝突事故があったそうで、後に川から車輪が出てきたものを置いているそうです。
昭和20年8月24日 7時40分頃多摩川橋梁中央部において上り6列車(8850形8869号機牽引、客車5両編成)と下り3列車(8850形8853号機牽引、客車5両編成)が正面衝突し、多数の死傷者が出ました。
海まで流された者もいらっしゃるらしい。
事故車両の車輪が近くのくじら公園に保管しています。
また、昭和22年7月14日にはアメリカ軍横田基地所属のA-26攻撃機と八高線の貨物列車が衝突し、死者が4名も出るような事故も発生しています。
気になっていた所に、ようやく行けました。
この間、たまたま自転車で通りかかったのですが、丁度それが8月24日でした。
これは重要なものだと思うし、後世に残していってほしいと思います。
終戦直後にこんな大事故があったとは知りませんでした。
モニュメントに感謝。
情報の発達こそがこのような事故を防ぐ役割を担うと思います。
戦前に現在の情報網の三分の一でもあれば防げたと思います。
ちなみに私はネットでこの場を知りネットナビでここに辿り着き、ネットをググッてこの事故の詳しい情報を知りました。
そして何かを感じ得ることができたと思います。
こんな事故があったとは知りませんでした。
思い込み、油断。
気を付けたいと思います。
電車通過中は恐ろしくてくぐれません。
ひっそりと車輪があり何だろうと!?そんな大変な事故があったんですね。
父親に聞いた話ですが、前日に雨が降って増水していたらしく、その方が魚が岸により取りやすいということで、父親が朝から魚取りに行っていたそうです。
すると上流で雷が落ちたような物凄い音がし、暫らくすると列車の部品や荷物や人などが流れてきたそうです。
父親はまだ子供だったそうですが、泳ぎが得意だったので何人か助けたそうです。
八高線の近くにある成隣小学校や公共の施設などが、その時の救護場所や遺体安置所になったそうです。
これは見るべき歴史。
事故の何十年か後の浚渫の際に川底から発見された、事故車両の車輪が展示してあります。
事故の日付の次の日に通りかかった所、車輪に花が供られていました。
日本人の美点を見た気がします。
今の情報社会で、人の行動が重なる史実だと思う。
時代は終戦、情報(電信電話)が当たり前の中でそれが使えなくなった時に、ルールを外れた行動を行なったことで起きてしまった。
しかも双方が行動していた事も事故につながった。
通信が使えない時代は、まず、人が歩いて行ったと思う。
今の時代も、情報がなくなった時の行動の準備はできていない。
待ち合わせで場所を明確に決めなくなったし、待ち合わせに人が来ないと、待たずに歩き回るようになった。
携帯などの情報を前提にした行動でルールを無視してる。
名前 |
八高線列車正面衝突事故モニュメント |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
今はのどかな多摩川の土手ですが、戦後すぐとはいえこのような事後があったことに驚きました。
こういった事故を教訓にして今の安全な列車の運行があるということに思いを馳せ、先人の苦労に感謝を改めて感じました。