温泉街に赤い橋が映えます。
相染橋(西行の戻り橋) / / .
温泉街に赤い橋が映えます。
今は工事中で橋は渡れません。
平安時代平清盛と共に北面の武士であった佐藤 義清(西行法師)ゆかりの橋、和歌の名手としても有名。
俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)憲清、則清、範清とも記される。
出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。
鎌倉幕府が編纂した公的日記書「吾妻鏡」には、流鏑馬、笠懸、牛追物、犬追物といった騎射に関する記述が多く、政治的にも騎射を奨励していたことが窺われるが、それと同時に流鏑馬においては、源頼朝をはじめ弓馬に通じた御家人たちが、藤原秀郷の弓馬故実、いわゆる「秀郷流」の考証に苦心していたことも、散見している。
当時、騎射の流儀として名があるのは秀郷流だけであり、後の三浦流、武田流、小笠原流といった騎射の流儀は、まだ流儀として認識・確立されていなかったとみられる。
藤原秀郷は平安時代中期、下野国 (現在の栃木県) 出身の武将で、平将門の乱を平定した功により従四位下に昇進し、下野守、武蔵守、鎮守府将軍を兼任した。
秀郷の子孫も鎮守府将軍を世襲したことから、中世東国武士の武芸故実の祖として象徴的な人物である。
頼朝が「秀郷流」を特に重視した背景には、律令制が衰退して王朝国家体制から中世国家体制に移行する過程で、軍事の主導権は武官から軍事貴族そして鎌倉武士へと移っていったが、武技においては騎射を第一とする武官の伝統が変わらずに継承された、ということがある。
そのため頼朝は、東国武家政権の威厳と格式を、東国出身の軍事貴族であった藤原秀郷の弓馬故実で補強する必要があったと思われる。
そうしたなか、頼朝は鶴岡八幡宮で偶然に出会ったある老僧から秀郷流について詳しく知る機会を得た。
実はその老僧こそ、西行法師であった。
西行は俗名を佐藤義清といい、藤原秀郷の流れを汲む佐藤康清の嫡男として元永元年(1118)に生まれた。
十八歳で左兵衛尉に任じられ、鳥羽院の北面の武士となった。
あの平清盛は同僚である。
北面の武士とは、院の身辺警護にあたる武士をさし、御所の北側に詰所があったところからこの呼び名がある。
北面は鳥羽院から二代前の、白河院のとき設けられた制度で、上北面、下北面とあり、義清は下北面であった。
下北面の武士は位こそ低かったが、弓馬、蹴鞠、詩歌、管弦などに堪能で容姿端麗な若者が選ばれた。
院の寵愛を受け、位は低くとも御所の中では一際目を引く存在だったともいわれている。
普通の橋です。
西行の戻り橋。
名前 |
相染橋(西行の戻り橋) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.2 |
周りは景色が良いです。