由来は説明板写真で。
平潟湾から称名寺方面へ少し登る龍華寺手前の神社、由来は説明板写真で。
1311年この地に移転して来たとか。
鰻松は、洲崎神社の直ぐ近くです。
鰻は、ふあふあタレが濃く感じますが食べると程よく美味しかったです。
清々しい良い神社です!
こじんまりとした神社。
龍華寺の隣の三角地神社。
州崎は、地形とかで使われます。
町名が州崎なので、神社名から町名をとったのか、町名(村名?)から神社名をとったのか?小さな敷地の神社です。
古めの、細身の灯籠があります。
全部当時の物かは、不明ですが。
歩道が広い、中に入ったのでなく、そこで電話していたのです。
祭の出店が少ない。
洲崎神社は、横浜市金沢区洲崎町にある神社です。
洲崎神社の創祀については不詳ながら、元富岡村と柴村の間にあった長浜に祀られていたといいます。
応長元年(1311)大浪に村全体が飲み込まれ、長浜で生き残った住民が鎮守大六天と共に当地に移住したといいます。
明治43年泥亀村の日枝神社及び稲荷社を合祀、更に大正三年二月二十四日泥亀神殿姫子島の無格社十二天社を合祀したといいます。
祭神 誉田別命 ( ほむだわけのみこと )相殿 大山咋命 ( おおやまくいのみこと )、倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )、太田命 ( おおたのみこと )、磐長比売命 ( いわながひめのみこと )、建速須佐之男命 ( たけはやすさのおのみこと )祭日 例大祭7月15日・湯立神楽9月15日◆新編武蔵風土記稿による洲崎神社の由緒(洲崎村)第六天社年貢地、小名八面にあり、二間に三間南向、前に石の鳥居あり、華蔵院持。
(新編武蔵風土記稿より)◆神奈川県神社誌による洲崎神社の由緒当社はもと長浜の地にあったが、応長元年(一三一一)五月十八日の大海嘯に一村流滅し(柴町熊野神社の項参照)、住民の一部が鎮守大六天社を奉じてこの地に移住したものである。
現在の本殿は天保九年六月十二日の再建で、明治維新の際洲崎神社と改称した。
当初の移住民は中心に社を置いてその周囲を囲続して民戸を構える特異な村落形態をとり、後世まで「家津良八戸」と呼ばれて口碑にも伝えられたが、明治三十六年十二月一日横浜金沢間の国道改修により、翌年二月九日現在地に遷座した。
同四十一年境内を拡張、翌年五月拝殿を増築、翌四十三年八月十五日泥亀村の日枝神社及び稲荷社を合祀、更に大正三年二月二十四日泥亀神殿姫子島の無格社十二天社を合祀したが、大正十年十二月に至り神饌幣帛料供進指定社となった。
昭和十六年、幣殿、拝殿、神饌舎を再度改築して現在に至る。
(神奈川県神社誌より)◆境内掲示による洲崎神社の由緒洲崎神社略誌当社は元富岡村と柴村との間に長浜と字せる所あり、現今は野口記念館のある所にして昔時は十八町も海に突出し、今に長浜千軒と口碑に残れる程にて人家稠密し殷賑を極めしが、応長元年(一三一一年)激浪の為洗い滅ぼされし住民の一部本村に移住す。
依って産土神たる鎮守大六天も同時に此処に移し造営す。
現今の社は天保九年六月十二日の再建にして、明治維新の際、神仏混交を廃せられ洲崎神社と改称す。
而して社の鎮座地は他の神社と異なり古き頃より家津良町道路の真ん中にあり、誠に珍しかりしが明治三十七年二月九日横浜金沢間道路改修に付き現場に移転す。
明治四十年十二月県の訓令第四十九号により四十一年十一月境内の拡張をし、四十二年五月拝殿を増築し社殿完成す。
明治四十三年八月十五日本村泥亀鎮座村社日枝神社(祭神大山咋命)同社末社稲荷社二社(祭神一社、倉稲魂命、一社、大田命)合併許可八月三十日処分済み成る。
大正三年二月二十四日同泥亀姫小島無格社十二天社(祭神磐長比売命)を、合併許可三月十日処分済み成る。
大正十年十二月十六日神奈川県告示第三七三号を以て神饌幣帛料供進神社に列せらる。
(境内掲示より)
・7月に(12~夜まで)例大祭で神輿と山車が出る。
夜は提灯に明かりが灯る。
数m移動するごとに麦茶と軽食で休憩。
金色の獅子頭(いつもはガラス越しでしか見られない)を、この日は外で見ることが出来る。
角地にある(三角地)、小さな神社です。
地域の方々が、お参りしていました。
思いがけない場所に可愛いお社がありました。
こちらは御朱印ありませんでした。
名前 |
洲崎神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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関連サイト |
http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=270&cd=1204030&scd=&npg=0 |
評価 |
3.5 |
小柴3つ目の神社。