山谷地域の中心点である「泪橋交差点」から北へ300...
延命地蔵 (地蔵菩薩) 、またの名を“首切り地蔵”と呼ばれる高さ3.6㍍の座像は、山谷地域の中心点である「泪橋交差点」から北へ300㍍の東京メトロ日比谷線の南改札の前ある「延命寺」の中に入れば誰でも見ることが出来る。
この大きな地蔵は、27個の花崗岩の寄せ石作りの像で、元は南千住の貨物線の南側辺りにあったものを、明治28年 (1895年) 鉄道敷設工事の際に現在の地下鉄日比谷線とJR常磐線のガードの間に移された。
平成23年(2011年) 3月11日におきた東日本大震災後、首切り地蔵はダルマ落としのように胴の部分がずれ、頻繁に続いていた余震の倒壊防止のため一時解体された。
すぐ近くにあった小塚原 (こつかっぱら) 刑場は、江戸時代からお仕置き場として斬罪・獄門・火罪・磔 (はりつけ) などの重罪の刑が執行され、埋葬された死者の数は20万人にものぼると言われているが、その受刑者の菩薩を弔うため寛保元年 (1741年) に地蔵菩薩が造立されたという。
お仕置き場は、刑罰や無縁、埋葬などに止まらず、江戸時代からペットの供養、名刀の試し切りや腑分け (解剖) に至るまで実に多彩な役割を明治期まで担った。
実は、山谷地域でもある南千住2丁目から5丁目に掛けての場所は、この地で日本最初の西洋解剖の翻訳書「解体新書」 を作るきっかけになったことを考えると日本の近代医学のスタートの地だったともいえるのでは?また、首切り地蔵のスグ脇には三角点 (南千住 1.51米 三等) がある。
そのことは地元でも知る者は少ない。
そして最後の写真は、刑場が廃止された年、明治6年 (1873年) 7月の画像で、よく見ると 右側にまだちょんまげを結っている人がポーズをとっている姿が見える。
小塚原刑場に隣接する寺院受刑者供養のため創建されたと思われがちですが、刑場の方が後からの設置です。
パワー貰えます。
お坊様がとても分かりやすく説法してくださるので、愛犬とのお別れも区切りがつけました。
小塚原の刑場は1667年以来江戸期200年以上にわたり重罪人の処刑などを行っていた。
断首などにより死亡した者の埋葬はご法度で死体は土を被せて打ち捨てられていた。
その数20万体以上。
荒川区の南千住にある「小塚原回向院」と「延命院」が刑場跡浅草方面からきた「吉野通り」が東京メトロ日比谷線と常磐線の地下をくぐり「コツ通り」になるところが小塚原である。
コツ通りとは回向院の前の通りで、土を掘ると骸骨が出てきたことから名前がついた。
特にこの線路敷設工事の時に大量の人骨がでたそうだ。
大量の人骨の混じった土。
(写真)取り出され並べられた人骨。
(写真)歩道橋の上から大量の人骨が埋まっていた線路を見る。
(写真)20万人余の遺体が浅く埋められたこの地区は土を掘ると骨が出てくると言われている。
この地区で常磐線、日比谷線の敷設工事をしていた関係者は掘るたびに人骨が出てきて戦々恐々だったに違いない。
南千住回向院が鉄道敷設の祭に南北に分断されて、南側部分が独立して昭和57年、延命寺となる。
境内には俗称・首切り地蔵と呼ばれる延命地蔵尊がある。
近くにある浄土宗寺院である回向院の敷地南側が鉄道工事により分断され、それが独立して出来たのがこの延命寺。
こちらには「南無阿弥陀仏」の石碑ではなく「南無妙法蓮華経」(日蓮宗)の石碑があります。
また、大きな首切り地蔵の横には小さなお稲荷さんの祠があり、チグハグな印象を受ける寺院です。
これらに関しては、他の寺院にも見られますが。
そして、本堂横にはお寺という雰囲気を壊すかの様にお墓販売の業者事務所が開設されています。
安政の大獄や坂下門事件や桜田門事件に関与した方々、罪人などを処刑した小塚原処刑場の地に建立したお寺🙏なのでちょっと殺風景な所やどんよりとした感じがする🍂🍂🍂目を引く巨大な文化財の首切地蔵は迫力がある(╹◡╹)
小塚原刑場は江戸時代後期から明治初期にかけて二十万人以上の処刑を行った。
現在の様にDNA鑑定等ない時代であり冤罪による処刑も行われたと聞いている。
処刑後の御遺体の扱いは酷く浅い穴を掘り御遺体に土を被せた粗末なものであった。
夏場ともなれば腐敗が進み凄まじい臭気を放ち野犬等にも喰い散らかされ地獄さながら様相を呈していた。
命と引き換えに罪を償ったのであり償った後は懇ろに供養すべきである。
その供養は現在に至っても行っているとは到底思えない。
首斬りは処刑手段であり何故?地蔵と結び付ける必要があるのか?抑々首斬り地蔵を建てる前に自宗の本尊である阿弥陀如来像を建てるべきではないのか?首斬り地蔵の辺りに無数の地蔵を無造作乱雑に置き 何故に供養と云えるのか?しかもその横には法華経の御題目の石碑を建てている。
何故?自宗の念仏の石碑を建てないのか?最早 本尊に迷っているからではないのか?浄土宗で絶対成仏は叶わない。
叶うどころか無間地獄必定である。
その理由は浄土三部経の中の無量寿経で説かれる四十八願にあり その四十八願の中の第十八願に明確に設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法と 記されている。
四十八願とは阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が阿弥陀如来となる修行に先立って立てた四十八の願を指す。
この娑婆世界は釈尊有縁の地であり方便として云うなれば 釈尊こそ我々衆生の親にあたる。
対して阿弥陀如来は西方極楽浄土の住人であり娑婆世界の衆生とは全くの無縁であり他人。
実の親である釈尊を差し置き他人であり縁も所縁もない阿弥陀如来に後生を願う これを親不孝と云わないだろうか?仏の御心は法華経であり念仏は法華経を説く為の方便で説かれたもの。
よって法華経が説かれた後は切り捨てるべきである。
宗教は教義こそが最重要であり幸せにも不幸せにもなる諸刃の剣に他ならない。
教えとする教義を善く善く思慮して欲しいものである。
1982年開山、江戸三大刑場のひとつ小塚原刑場跡である。
江戸時代に冤罪の方も含め20万人もの人が処刑され、その弔いとして首切り地蔵が作られました。
埋葬方法も酷いもので、浅く掘って土を被せたのみ、その為死臭が漂い動物が墓を暴きにきて相当酷い様子だったそうです。
鉄道の工事で遺骨が大量に出土したといわれる。
御朱印有(要連絡)
江戸時代最大の仕置場である小塚原刑場跡に建つお寺です。
供養の為の首切り地蔵、髭題目があります。
駅前から見えるところにありますが、人の気配はありませんでした。
2017/6/13拝受 線路の開通によって小塚原回向院と分院された。
20万人ともいわれる斬首刑者を弔うために作られた巨大な石蔵。
江戸六地蔵は銅製。
歴史の重さを感じる御朱印です。
真ん中に首切り地蔵のハンコが押してあります。
御住職の住まいは、寺領には無いので、御朱印を頂く時は、事前に連絡した方が良い。
有り難く御朱印(墨字、小塚原刑場跡 首切り地蔵)を頂きました!
元小塚原刑場、江戸時代に存在した大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに三大刑場と云われています。
明治初期には、人道上の問題より新政府によって廃止されました。
しかし、創設から廃止までの間、およそ20万人以上の罪人に対して、磔、斬罪、獄門等の刑が冤罪も含めて執行されたそうです。
大きな「首切り地蔵」は高さ、およそ3m。
刑死者の冥福を祈るために、1741年(寛保元年)に建てられたと云われています。
ちなみに3.11の地震では「首が落ちた」と流れましたが、「首切り地蔵」の名から来るガセの流布で、実際は左腕の落下と胴体部が大きくズレたとの事です。
名前 |
延命寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3807-0897 |
住所 |
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評価 |
3.9 |
御朱印頂きました。
丁寧に対応していただきました。
東日本大震災でお地蔵さまが被災されたとのことで修復支援の看板がありました。