かつて姉崎には美しい海岸がありました。
難しくて読めない石碑があります。
失われた名勝 八反甫かつては風光明媚な海岸線を描いていた名勝【八反甫(歩)】は、今は見る影もない。
石碑群は懸命なほどに八反甫の素晴らしさを訴えかけているが、それも空しい。
天気の良い日などは、岸に打寄せるさざ波や、富士山が見事であっただろう。
時は幕末、この時代を語るには欠かせない人物がこの八反甫に来訪していたのだという。
信濃国松代藩士の佐久間象山先生は、当時「砲術」に関して非常なまでの興味を示し、いくつかの藩から依頼され、大砲を鋳造したほどであった。
嘉永3年(ペリー来航は嘉永6年。
早くも内憂外患を悟った先生は、天保13年11月【海防八策】を藩主に建白し、海岸防御の重要性を説くと共に、海軍創設の意見も主張した。
)、依頼は豊前中津藩より受注。
数ヶ月の製作期間を経て完成した鋳造大砲:加農砲(カノン砲)を、何処で試し撃ちするか思案の中、八反甫にほど近い今津在住の豪商・始関半左衛門がこの付近での試射を申し出た。
半左衛門は、江戸の海運業にも手広く営み、当時大型運搬船であった五大力船を十数隻所有していた。
嘉永4年11月上旬にその五大力船によって、大砲が八反甫海岸に持ち込まれたのだった。
何処から漏れ聞こえたのか、大砲試射の一大イベントを聞きつけた、遠近村々の野次馬が、雲霞の如く集まったのだという。
注目の第一発目は成功。
二発目成功。
三発目成功と順調に事が運ぶかに見えた四発目、轟音と共に砲身が破裂☆彡、…失敗に終わってしまった。
みなもと太郎先生著のコミック『風雲児たち 幕末編4』p136に、砲身破裂に見舞われて黒コゲチリチリになった象山先生の姿が描かれているが、このエピソードは、どうやら八反甫でのことらしい。
象山先生はこの失敗によって、世間からは散々コケにされたという。
【黒玉を打ちにわざわざ姉ヶ崎 海と陸とに馬鹿が沢山】【読めもせずうそをつきじ(築地)の横文字りめくらをよせて放す大筒】【大砲をうちそこなってべそをかき後のしまつをなんとしょうざん(象山)】などの落首もささやかれた。
しかし、そこは一徹者の象山先生、「蘭書を読んで、誰一人として出来なかったことをやったのだから、間違えがあって当然である。
今後も間違えが無いとはいえないが、日本広しといえども拙者を置いてできるものは居ないであろう。
失敗は成功のもというから、もっと拙者に金をかけて、稽古をさせて下されるのも悪くは無いでしょう。
」と言い切ったという。
(一方で、試射失敗を知ってか知らずか、漢学者大槻磐渓は七言絶句を賦してその行動力を絶賛した。
)幕末のビッグネームがこの地に来訪したという史実は、どうやらあまり知られていないらしいが、今は失われた名勝「八反甫」の地にて、先生の心意気を是非とも感じていただきたいものである。
かつて姉崎には美しい海岸がありました。
昭和30年代後半の京葉臨海工業地帯造成に伴い、姉崎の海はなくなってしまいましたが、特に八反甫(歩)は打ち続く白い砂浜と緑の松が素晴らしく『千葉の舞子浜』(兵庫県にある舞子浜に比した)とも云われ、また、ここからの夕陽が格別な『夕陽丘』との名付けられた場所もあったようです。
今は全くその面影を残していませんが、昭和28年頃に齋藤孝氏(姉崎在住 故人)が郷土の名勝を世に広めようと、沢山の石碑を建てました。
これら石碑は「市原市ふるさと文化研究会」の手によってふじね橋脇(ホテル・タカザワの裏)に纏められています。
この『白砂青松』『新舞妓浜』と呼ばれた八反甫は工場地帯となり、当時の面影は全くありません。
ただ、ホテル・タカザワ裏の椎津川に沿う松並木が唯一、当時からのものとして残っています。
この松並木の左側には白い砂浜、そして青い海が広がっておりました。
<石碑①> 名勝 八反甫の碑について 昔、ここは八反甫といい、白砂青松の海岸が連なり、西は富士、東ははるかに姉崎神社の鬱蒼とした森が見える風光明媚なところでした。
姉崎、斉藤 孝(1876~1967)は、ふる里を愛し文化の高揚を願う心からここに数々の碑を建て八反甫を姉崎の名勝地として世に広めました。
ふる里の貴重な歴史を語りかけてくれる史跡です。
大切に致しましょう。
平成八年八月 市原市ふる里文化研究会 <石碑②>長閑さや 眺め見渡す 真帆佳冬日に 汐干狩する ニ三人名月や 見渡す限り 山と水 七十七翁 世外故郷名所を後世永く残 石碑<裏>姉崎村鶴牧藩水野壱岐守壱万五千石城下神社 延喜式内 姉崎神社佛閣 妙経寺旧御朱印拾石 塔中拾坊、末寺七ヶ寺名勝 八反甫夕照名所 富士、筑波 内湾一望事蹟 義僕市兵衛記、孝子五郎傳 姉崎鶴牧藩修来館、史記評林改訂昭和二十八年三月 齊藤孝 <石碑③>延喜式内上總一位宮 姉崎神社一、御祭神女性 志那斗辨命、相殿日本武尊一、隣郷 嶋穴神社 御祭神志那津彦尊御息所ナリ一、御神木 樹齢七百余年神域六千余坪、御神殿三十六石當地奇習 御祭神之松樹ヲ嫌フトテ氏子ハ一般新年松飾用イズ庭園ニハ松樹ヲ植ヘズ、是、昔 夫神ノ狩猟ニ出カケラレ御帰還ノ遅キヲ歎カセラレ「待」ヲ松ト化傳セラレタルモノト傳フ一、御神輿ニハ御霊代ヲ奉遷ス是ヲ舁ク者ハ謹ンデ不敬ニ渉ラザル事、渡御ハ厳粛ニ執行スル事昭和二十八年三月 姉崎仲丁小川新宅 斉藤 孝<裏> 旧姉崎村鶴牧藩 史記評林改訂藩校修来館ニ於テ藩主水野壱岐守唐本史記評林之不備訂正を企圖セラレ館長田中篤実 豊田一貫其他諸先生ノ努力ニヨリ小藩ニシテ此大事業完成シ遂ニ畏クモ明治大帝御前開講ノ栄ヲ得タリ当時全区國学者間ニ於テモ史記鶴牧版ト賞揚セラル此名誉ヲ後世ニ傳ヘントスルモノナリ名勝嘗テ、東都其角堂永機、孤山堂卓郎両大家当地名所八反甫ニ遊ヒ夕陽ノ西山ニ傾キ残照我國勢田ノ夕照ニ勝ト左ノ一句遺ス『春宵一刻價千金』ニ題シテ「名月の價けちらす光哉」卓郎昭和二十八年三月 姉崎名所八反甫開発者 斉藤孝 <石碑04> 夕陽を 比處に 眺めて是程のものとは 知らす春の宵 葵巳春日 姉崎 斉藤孝 七十七翁 世外<裏面>姉崎名所八反甫当地俳人永野菁莪画家広瀬蘆竹及東都其角堂永機及孤山堂卓郎等両大家等選定日本随一夕照名所夕陽丘愛郷記念 各所開発 齊藤孝昭和二十八年三月 <石碑⑤>姉崎名所八反甫 新舞子濱 富士筑波内湾一望夕陽丘東京湾随一名所汐干狩 避暑納涼安全第一海水浴場魚漁釣舟網舟簀立網 昭和二十八年三月 姉崎仲丁 齊藤孝<裏面>日本随一夕照名所明治初年当地俳人永野菁莪画家廣瀬蘆竹東都其角堂永機及孤山堂卓郎宗匠等ト比地ニ遊ビ夕照ヲ眺メテ我國勢田ノ夕照ニ勝リ日本随一ト賞揚セラレ左ノ一句ヲ遺セリ「春宵一刻價千金」に題して 名月の價蹴ちらす 光哉 卓郎 <石碑⑥> 東京湾随一名所 旧将軍家献上貝汐干狩 各宮殿下各学校團体御来遊 婦女幼童安全第一海水浴場昭和二十八年三月 姉崎仲丁小川新宅 齊藤孝 <裏面>日本随一夕陽名所眺望絶佳八反甫夕陽丘魚漁 網舟 釣舟 簀立網タイ、カレイ、キス、コチ、ボラ、セイゴ、アジ、サヨリ、エビ、ハゼ、カニ、其他 別荘好適地 所在別荘數百戸 <石碑⑦>旧姉崎村鶴牧藩壱万五千石城下三十六ケ村神社 当社、椎津八坂神社、天羽田天照大神宮佛閣 本山妙経寺旧御朱印拾石塔中拾坊末寺七ヶ寺名勝 八反甫夕照名所、夕陽丘、遊園地事蹟 義僕市兵衛記、孝子五郎傳 姉崎鶴牧藩修来館、史記評林改訂汐干狩 東京湾随一名所、旧将軍家献上貝海水浴 婦女幼童安全第一、魚漁、網舟、釣舟、簀立網昭和二十年七月 愛郷記念 姉崎仲丁住 齊藤孝 <裏面>義僕市兵衛記彼ノ赤穂浪士ハ武士トシテ能ク其本分ヲ盡シタルモノナリ、茲ニ義僕市兵衛氏ハ単ニ農僕ニ過キズシテ一朝主家の法難ニ際シテ身ヲ以テ主ニ替ラント度々官ニ請ヒ又苦労以テ主家ヲ扶養シ社会ヲ感動セシメ官ニ主ノ罪ヲ許サレ特ニ賞典ヲ賜フ茲ニ荻生徂徠、林大学頭両大家ハ御撰文ヲ以テ賞揚セrsレ農僕ニシテ此ノ如キハ武士ニモ勝リ古今ニ其例ヲ見ザルモ晋 其角 句アリ「起きて聞け此時鳥市兵衛記孝子五郎、幼ヨリ親ニ仕ヘ孝ニシテ度々藩主ヨリ賞典ヲ賜フ昭和二十八年三月 姉崎仲丁小川新宅 齊藤 孝。
名前 |
八反甫石碑群 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
2.9 |
運河沿いにある、石碑群です。
この辺は海岸線だったそうです。