名前 |
華厳の釈迦如来石像 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
山門をくぐり、駐車場(普通車が10台ほど駐められる広さでの砂利なので乾燥していると埃が舞う)を通り抜けると石柱の門があり、石柱を通り、右手に切子ボタン園があり、左手に池があり中心付近に華厳の釈迦如来石像が置かれています。
釈迦が華厳経を説いて三昧入りした時の姿、唐津藩主松平乗春公の建立です。
松平乗春公概略:承応三年(1654)、唐津藩初代藩主・松平乗久の次男として生まれる。
兄が五代将軍綱吉の命により松平忠弘の婿養子になったため、元和二年(1682)に嫡子となり、従五位下主水正に叙任された。
貞享三年(1686)、父の死去により家督を継ぎ、主水正(もんどのかみ)から和泉守(いずみのかみ)に遷任する。
元禄三年(1690)9月5日、江戸で死去。
享年三十七。
ここ近松寺は、山名:瑞鳳山(ずいほうざん)、宗派:臨済宗、南禅寺派の寺院で、寺伝によれば、後二條天皇の乾元元年(1302)創建と伝えられています。
降って天文年間(1532~1554)、岸嶽城主波多三河守親は博多聖福寺の僧湖心碩鼎(こしんせきてい)の高徳を慕い、満島山(現在の唐津城内)に近松寺を再建し開祖として迎えたと伝えられています。
この寺は、天正二年(1574)に兵火に遭い、焼失しました。
文禄(ぶんろく)二年(1593)、豊臣政権によって波多三河守親が改易になり、寺沢広高が波多氏の後を受けて唐津地方の代官になりました。
そこで、広高は博多聖福寺にいた耳峯玄熊(じほうげんゆう)を招き、中国の明や朝鮮との外交を任せました。
耳峯禅師(じほうぜんじ)は、よくその任に応えると共に慶長三年(1598)には祖師湖心碩鼎(そしこしんせきてい)ゆかりの近松寺を現在地に再興しました。
寺沢広高は耳峯禅師の功績に報いるために寺田百石と山林を寺産として贈り、菩提寺として篤く帰依しました。
寺沢氏二代目の堅高(かたたか)が江戸藩邸で死去すると嗣子がなく寺沢氏は断絶になり、寺運も衰退に向いました。
第四世遠室明超(えんしつみょうちょう)はこれを憂い徳川家光に近松寺の隆盛を懇請しました。
やがて、これが聞き届けられ百石の御朱印を賜り、旧観を維持する事ができるようになりました。
その後、譜代の大名大久保・松平・土井・水野・小笠原各氏の唐津入部となりましたが、歴代の城主は当寺を帰依しました。
中でも文政元年(1818)に入部した小笠原公は寺田百石を寄進して、菩提寺として深く帰依しました。
(2018/06/20)