六代目 三遊亭円楽師匠の眠るお寺。
曹洞宗 鷲霊山 釈迦尊寺. / / / .
笑点でお馴染みの六代目三遊亭円楽(元 楽太郎)が肺癌で逝去されました。七十二歳。
此処に謹んでお悔やみ申し上げます。
本名u003d会泰通(あい やすみち) 法名「泰通圓生上座(たいつうえんしょうじょうざ)」は円楽さんが得度(出家)した際に本人が決めたそうです。
大名跡の圓生を継ぎたい事からだそうです。
親鸞を始祖とする浄土真宗のお寺のようです。
此の宗派は戒律の無い宗派なので、戒名と言わず法名と呼ぶそうです。
宗派の本尊は阿弥陀如来です。
四十八の誓願を立てた法蔵菩薩が「この願いが叶わないなら、決して如来にならない」と云う誓いや 「私の名を呼べば必ず救いに来る」とお誓いをなされました。
このようなことから檀信徒は『南無阿弥陀仏』(阿弥陀如来に帰依します)と唱えるだけで救われのです。
阿弥陀如来の真骨頂の他力本願(他を救うため力を注ぐ本当の願い)はそういう意味なのです。
世間で間違われた理解は他人に頼り願いを叶えるですね!どうか勘違いを為さらないでください!つまり現世利益ではなくて彼岸に行った時は阿弥陀様のご加護で極楽浄土に住まうことが叶うのです。
そういう仏様を信心していたことになりますね。
ちよっと脱線したようにお思いの方がいらっやるかもしれませんが、円楽さんは自分で法名を決め正しく彼岸の浄土で名跡を師匠五代目圓楽と喜んでいるでしょう。
全ては阿弥陀如来の計らいです。
感謝される時は、阿弥陀如来に帰依しますと唱えると善いですね。
南無阿弥陀仏 『オン アミリタ テイセイカラ ウン』釈迦尊寺はそんな円楽さんのお墓があります。
三遊亭円楽の、お墓がある、お寺。
御朱印あり。
我が家の菩提寺です。
こちらのお寺には、玉照姫という美しい名前の女性と、羊太夫と呼ばれる謎の人物のお墓があります。
仏教が日本に伝わった頃、大連(おおむらじ)の物部氏と大臣(おおおみ)の蘇我氏との間に争いが起こりました。
どちらも大きな権勢を持ち、ことごとく対立していた物部氏と蘇我氏は、仏教の受け入れをめぐって激突し、ついに排仏派の物部氏は滅ぼされ、この時から蘇我氏の専横が始まりました。
物部氏にゆかりの者は厳しく処罰されましたが、そのなかに羽鳥連(はとりのむらじ)という人がいました。
本来なら処刑されるところを、妻の玉照姫が聖徳太子の乳母であった為、罪一等を減じられて、京から遥かに遠い上野国蒼海(おおみ)の里に流されました。
これが現在の前橋市元総社町付近と言われています。
失意のうちに羽鳥連が亡くなったあと、大赦が行われ、罪が許されたので、彼の孫に当たる羊太夫は都にのぼり、赦免の詔を受けました。
このとき、藤原鎌足の二男である定恵和尚を伴って帰りました。
それは亡き祖母の玉照姫が大切にしていた仏像を祭るためでした。
この仏像は祖母が、聖徳太子より賜った物だったのです。
故郷へ帰ると羊太夫は、定恵和尚とともに一堂を建立しました。
これが現在の釈迦尊寺の始まりだそうです。
羊太夫という人物には謎が多く、日本三碑の一つである多胡の碑にも、名前が刻まれています。
秩父で巨大な銅塊を発見し、その功績によって多胡郡と藤原氏の姓を賜ったとも言われていますが、朝廷への謀反の疑いで攻め滅ぼされたという言い伝えもあるそうです。
藤岡市上落合の七輿山古墳は、大軍を差し向けられて、羊太夫の一族が脱出し、落ち合った場所と言われ、妻女や子供たち七人が自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったので、七輿の名が生まれたと伝えられているそうです。
また安中市の上里見には羊神社がありますが、こちらは逃れた一族が新田を開き、定住してのち、先祖の羊太夫を祭ったのだということです。
ただ、この羊太夫は物部氏であるとの説の他に秦氏につながる渡来人であるとも、またユダヤ人であるとも言われ、その正体は謎に包まれています。
甘楽町の小幡氏は羊太夫の子孫であると称していますが、甘楽は韓(カラ)からきていると考えられていることから、やはり渡来人なのかもしれません(*^^*)
名前 |
曹洞宗 鷲霊山 釈迦尊寺. |
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ジャンル |
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電話番号 |
027-251-2848 |
住所 |
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評価 |
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六代目 三遊亭円楽師匠の眠るお寺。