名前 |
粟谷神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-tochigi/jsearch3tochigi.php?jinjya=76025 |
評価 |
3.5 |
粟谷神社(あわのやじんじゃ)主祭神 大己貴命配祀神 大山祇命 日本武命 素盞嗚命境内社 機神宮(栲機千々姫命)由緒社傳に曰く勸請年月は遼遠にして詳かならすと雖とも慶長十一年(1606)丙午十二月徳川代官小林重郎右衛門檢地縄入の節鎭守社地として東西三十間南北二十八間三合三夕を除地とし本社に附せられ享保九年(1724)二月二十二日下野國足利郡粟谷村宇都宮大明神へ神位宗源宜旨を賜はり正一位を授けらるとありて往古は宇都宮大明神と稱せしか明治五年(1872)に粟谷神社と改稱す亦本社拜殿の創建年月詳かならされと氏子金井仙右衛門仝繁之丞か願主となり天保十年(1839)丁亥八月拜殿再建す弘化四年(1847)丁未九月本社修繕を加へり時に和田仁右衛門金井繁之丞新藤久右衛門か發起となりて盡力せり明治十六年(1883)十月本社及ひ拜殿を修繕せり時に社長和田新八郎副社長和田耕次郎か東奔西走盡力して成る仝二十七年(1894)十月拜殿屋根瓦に改葺せしは氏子總代和田秋藏仝新八郎仝徳吉か奮▢該工事を興し社殿保存の目▢は勉めて力ありと云ふへし社域八百五十三坪にして百有余階の石磴を登りて拜殿に達す亦三十五級の磴を躋り本社に到る境地は丘陵の中腹に位し社背は山岳屹峙し前は板倉の要害山に相對し社殿壯巌を極め古杉老松高く聳ひ神寂ひて古雅を帶ひ眺矚頗る佳なり且華表の前側に征淸軍人戰死者田部田利三郎の碑石あり(「下野神社沿革誌」より)道路わきの山際に角形に駐車スペースがあり、石垣で組まれた間の鳥居の先、杉木立の登り参道石段の上に、比較的新しいアルミサッシの扉や雨戸の社務所か又は拝殿と思われる建物が見えます。
御本殿は更にその先の石段の上に、黒っぽい外壁の覆屋の中にあります。
覆屋の中には朱塗りの美しい流造の本殿と、その左右に境内社の木製の祠が並んでいます。
本殿覆屋の右手には、生駒神・日光神・浅間神の祠と、金毘羅宮や毘沙門天など幾つかの末社石祠が並んでいます。
本殿覆屋の左手には「機神宮」の社があります。
本殿覆屋横の機神宮には、足利織物の祖・金井繁之丞命が合祀されています。
江戸時代、当地方は農地が少なく養蚕の副業で生活を維持していました。
その後、京都西陣より機織技術が導入され、高級織物が生産できるようになりました。
宝暦八年(1758)に生まれた金井繁之丞は、織物技術で機屋仲間からも認められる名人になり、天明七年(1787)、仲間と相談して粟谷神社境内に「機神宮」の石祠を建てました。
その後、金井繁之丞は京都西陣より紋織の技法を学び、美術品ともいえる織物技術を完成させ名声を得ました。
幕府から東海道の景色を織るように命じられ、繁之丞五十三次を見事に完成しました。
模様玉川・お召ちりまん・小緞子・二丁緞子など数々の織物技術を発明し、産地の発展に貢献したといいます。
また、当神社より西へ50m程入ると足利市重要文化財の「金井繁之丞の石塔」があります。
(サイト「玄松子の記憶」より)