名前 |
向小駄良番所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
遠藤藩の時代に郡上藩に境目番(1600年代前半〜)が設置されたのが最初だと思われる。
初代河合沖右衛門(金森藩•山方奉行/改易後、再度仕官し青山藩口番所役人へ)➡︎ニ代目河合越右衛門(青山藩/山方支配)➡︎三代目河合越右衛門(青山藩)➡︎4代目河合岩太郎(青山藩) は同藩士と役務にあたる。
5代目は明治時代廃藩置県後岐阜県収税局から台湾総督府へ。
口番所は遠藤藩から始まり金森藩(金森頼時、頼錦)➡︎青山藩の激動の郡上宝暦騒動(江戸三大一揆の一つ)を超え明治時代に廃止になるまで続いた。
また3代目河合越右衛門は地元の円覚寺が火災で焼失した時再建に尽力をした。
(写真:再建 大世話方 河合越右衛門吉則 円覚寺)(補足)郡上宝暦騒動時、河合沖右衛門の家は郡上八幡の本町に住居があった。
伝承によると山伏姿身をやつした金森頼錦公(郡上藩主1713年〜1763年)は郡上を出る際(改易)に深夜に沖右衛門宅に訪れ代々守護を頼むぞと言い残し一体の観音像を残して去っていった。
現在は写真にある金森頼錦公が所有していたと思われる逗子のみが残されている。
(観音像所在は不明)