鳥取城跡をバックに従えています。
鳥取城跡へお越しになった際は、立ち寄って頂きたい場所です。
清々しく描かれてますが35歳にて4人の子供たちを遺して自刃とは、さぞ無念だったのでは?と思いを巡らせ銅像を見入ってしまった。
それよりこの場所ではうっかり見過ごしてしまいそうです。
鳥取城のお堀・石垣を背に建てられています。
勇ましい姿です!
吉川経家もそうです。
別所長治もそうです。
人を助けるために若くして自らの命を断つ判断はできません。
説明文を読むと、男気溢れるお殿様でしたね。
吉川経家は、鳥取城への援軍として派遣され、兵力差10倍の羽柴秀吉軍との籠城戦に耐えること4ヶ月、城内はカニバリズムの地獄絵となり、遂には降伏。
秀吉は吉川経家の奮戦を讃え自国にもどることを薦めたがこれを拒否、責任をとって切腹。
城下の兵、民は救われたとな。
後日、武士の鑑と称賛された。
漢だね。
お城のふもとにあります。
ロケーションが良いと思います。
鳥取城の麓、市営武道館の前に鳥取城を背にする形で鎮座するのが吉川経家像元々の鳥取城主でもなく、秀吉の助命提案も断って降伏の責任を取って自刃した真の武士です横の看板にある最期の手紙の簡潔さも見事ですねここを目的に行くようなスポットではありませんが、鳥取城や仁風閣など近隣の観光ついでには立ち寄ってみても良いのではないでしょうか。
鳥取城跡付近の南西にある銅像。
20191025 は吉川経家公の438回忌です。
公像の側には吟道翔風流の会が吉川経家公の遺徳を顕彰する七言古詩を刻んだ漢詩碑を建てました。
立ち止まり公像を見上げる人は側の漢詩碑にも目を向けて「うんうん、なるほど」と納得されています。
鳥取市内をウォーキングする時、公像の前を通る際は帽子を取り一礼します。
少し歴史を知見、記憶のある市民にとって、吉川経家公は恩人です。
(毛利方の吉川元春公も忘れてはならない武将です) 「吉川経家公像」は平成5年10月25日建てられました。
(公の御命日は1581年10月25日)御命日から412年後の同じ月日です。
この東町にお立ちになってからは26年目をお迎えです。
この場は久松山の眼下に鳥取城が築かれた一画で現在は、背後に高等学校、右方向に武道館そして県庁があり左方向には小学校、中学校、地区公民館、仁風閣、博物館があります。
公の前を色々な行き先を持ち年齢もまちまちな人達が日中、通り過ぎていきます。
県政に携わる役人の出勤、退庁の様子やこれからの時代を背負う若い園児、小・中・高校生達の様子をじっと見ておいでの事でしょう。
これからも公はこの場で不動な自然体で通り過ぎる市民を見守り続けられます。
鳥取城に籠城し羽柴軍と戦った吉川経家公の銅像です。
兵と民約2千とともに約2万の軍勢と戦った経家公は最期秀吉の助命を断り兵と民の命とひきかえに自刃しました。
武士の鑑として今でも高く評価されている武将です。
また工事が始まって。
落ち着かない。
景観悪くなる工事なら、配慮が必要。
久松山は綺麗な弧を描く。
鳥取城が羽ばたかない。
鳥取城跡をバックに従えています。
名前 |
吉川経家公像 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0857-22-3318 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.6 |
天下統一を目指した織田信長は、1580・1581年(天正8・9年)の2度にわたり羽柴(後の豊臣)秀吉を総大将とし、毛利方の最前線であった鳥取城を攻めました。
2度目の城攻めの際、籠城したのが、吉川経家(きっかわつねいえ)です。