巨椋池の歴史が分かります。
自転車で平等院に行く途中立ち寄りました。
古い、大きな住宅です。
この辺りの住宅は、殆ど農家と思われます。
久御山に住んでいますが、なかなか行く機会がなく、この間行ってきました!私達2人だけだったので、係りの方に十分な説明していだき、行って良かったです!場所が、中々解りづらく、1号線に目印になる物があれば、大変助かると思いました。
桜も綺麗な地域なので、又行きたいです!
【東一口地区】・東一口(ひがしいもあらい)は、中央部に京滋バイパス久御山ジャンクションのある広大な田園地帯に位置する町です。
・東一口の位置する所は元々、巨椋池西畔に浮かぶ大きな島の様な自然堤防だったと言われ、後鳥羽上皇の時代に与えられた特権的な漁業権の恩恵で、巨椋池の七割余りを占有する中核的な漁業集落として存在していました。
・今でも他の山城地区の農村集落で見られない特異な町並を形成している。
干拓されたとはいえ、集落の南北には水郷を思わせる排水路が通り、集落の拡張が見込めないので、江戸時代のままの集落形態が残っている。
【巨椋池】・巨椋池(おぐらいけ)は、京都府の南部、現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。
周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。
・治水工事によって宇治川から切り離され池全体の水位が下がり、周辺から流入する生活排水や農業排水の排出が滞ることになる。
よって水質悪化により漁獲量が減少したり、マラリア蚊が発生したりする問題が生じ、農業者にとっても、漁業者にとっても、巨椋池での生活は立ちゆかなくなり、国の食糧増産事業として国営第1号の干拓事業が実施されることになった【旧山田家住宅】江戸時代からの大庄屋で、淀川・巨椋池の漁業者の総帥として君臨した家で、その格式を今に伝え、主屋の規模は当時の三分の一ほどに縮小されているものの、書院の間や欄間等に往時の姿をとどめいてる。
案内してくださる方が とても親切ですとても 勉強になりました。
旧山田家住宅(主屋・長屋門・長塀)は、平成22年4月28日国登録有形文化財に登録。
旧山田家住宅は、京都府久世郡久御山町北西部の東一口(ひがしいもあらい)にあり、今は干拓されて面影はありませんが、周囲16キロ㍍、面積800ヘクタールに及んだ巨椋池(おぐらいけ)の南西に位置しています。
山田家は本山田とよばれ、淀川・巨椋池の漁業者の代表として御牧郷13カ村をまとめる大庄屋でした。
 敷地は、およそ東西40m、南北30mで水害の危険を考えて石垣の上に築かれています。
入口の長屋門は、飾り瓦を棟にのせた本瓦葺や漆喰塗の壁、与力窓、出格子が付くなど、武家屋敷のような重厚な構えをみせ、往時の格式を偲ぶことができます。
規模は、東西約27m、南北約4m、入母屋造で組棟の上段に松葉菱、下段に「丸に五つ引き」家紋の瓦が組み込まれています。
外観の意匠は往時の状態が受け継がれ、建築史・歴史的、文化的に興味深い貴重な建物です。
主屋は、東西約20m、南北約13m、入母屋造で、式台を備える玄関、居室部には網代や鯉の欄間、京狩野鶴沢派3代鶴沢探索の落款のある雲竜が描かれた襖絵など意匠を凝らした座敷が残っており、大庄屋としての趣を伝えています。
建築年代は、建築様式からみて18世紀末から19世紀初め頃の建築と推測されます。
※所有者の山田賀繼(やまだ・よしつぐ)さんから久御山町へ寄贈され、平成25年8月1日から町の文化財として管理し、貴重な歴史資料として活用していくこととしています。
巨椋池の歴史が分かります。
歴史を感じる。
名前 |
旧山田家住宅 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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関連サイト |
http://www.town.kumiyama.lg.jp/contents_detail.php?co=ser&frmId=2185 |
評価 |
4.2 |
疏水沿いに満開の桜、とても綺麗でした。