稲荷山経塚の出土地を示す為に建立されました。
名前 |
稲荷山経塚の石碑 |
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ジャンル |
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住所 |
〒612-0804 京都府京都市伏見区稲荷山官有地21−17 |
評価 |
5.0 |
稲荷山経塚(いなりやまきょうづか)の石碑・稲荷山経塚の石碑概要昭和41年(1966年)、伏見稲荷大社宮司の守屋光春氏により、稲荷山経塚の出土地を示す為に建立されました。
石碑の表面には「明治四十四年 経塚発掘趾」とあり、裏面には「昭和四十一年五月吉日建立 伏見稲荷大社 宮司守屋光春書」と刻まれている。
・経塚の概要経塚とは、平安時代中頃の末法思想の広がりを背景に、仏法が滅んだ後の世のために、経典や仏像を地中に埋納し、弥勒菩薩が出現するという五十六億七千万年後のはるか未来にまで保存する目的で造営された仏教遺跡のことです。
平安時代の経塚は主に11世紀後半から12 世紀末頃まで造営されました。
経塚の築造には霊地などの特別な土地が選ばれ、古くから神聖な山であった稲荷山は相応しい場所でした。
・稲荷山経塚発掘の経緯明治44年(1911年)、伏見稲荷大社の稲荷山で、茶屋の店主が土取りをしていた際に、偶然に発見された経塚です。
その後の発掘調査で銅製経筒や鏡などが発見されました。
稲荷山経塚の出土品の中には非常に豪華なものが含まれ、珍しい物として日本で現存最古の耳かきが見つかっています。
また化粧道具や簪がある事から女性に関わる品が多いのが特徴です。
なお出土品は東京国立博物館に収蔵されています。
・稲荷山経塚の出土品一覧(名称は東京国立博物館・所蔵品名に準拠する)・陶製外容器・銅製経筒・木製経巻軸・短刀・白磁皿・白磁小盃・水晶数珠玉・丸玉・平玉・山梔玉・装具・菊折枝文合子(銀製)・砂金・小鋺(銅製)・楪子(錫製)・皿(銅製)・銀提子(鉄漿が付着している事からお歯黒用とされる)・簪(耳かき付きかんざし)・金銅花瓶・甕破片・延金・銀塊鏡類・州浜瓜双鳥鏡・唐草双鳥鏡・桜山吹双鳥鏡・素文鏡・鉄鏡残片銅銭類・聖宋元宝・淳化元宝・煕寧元宝・元豐通宝・元祐通宝・開元通宝・政和通宝・稲荷山経塚と九条兼実(生没1149~1207年)この経塚は、摂政・関白であった藤原忠通の六男である九条兼実の日記「玉葉」の記述から、養和2年(1182年)に異母姉の皇嘉門院聖子(生没1122〜1182年)の供養をする為に、九条兼実によって造営された可能性が高いと研究者から指摘されています。
当時は稲荷社が存在した稲荷山を目的としたのではなく、かつて広大な敷地があった最勝金剛院に皇嘉門院聖子の墓所があり、その近辺にある稲荷山が認識されて経塚が造営されました。
さらに稲荷社と仏教の関わりも関係しています。
稲荷社は真言宗総本山の東寺の鎮守とされたことに端を発し、中世期には真言宗関係の堂塔・僧坊が多くありました。
中世期の稲荷山については、文保2年(1318年)の序文がある「渓嵐拾葉集」に、真言密教僧の仁海僧正が稲荷山で一千日間の修行をしていたことや、三井寺の刑部僧正が山伏となって稲荷山に入ったことが記されており、稲荷山が修験の行場であったことを物語っています。
ちなみに九条兼実は「玉葉」に、稲荷山の御劔社(長者社)に関わりのある名刀「小狐丸」は、藤原氏の氏長者が所持している先例があると書いています。
この頃には「小狐丸」は藤原氏が所有する名刀とされていたようです。
別の話では九条家が所有していたが鎌倉時代頃に散逸して明治時代に買い戻した話があります。
・皇嘉門院聖子と九条兼実九条兼実は、久寿3年(1156年)に八歳で母である加賀を亡くしており、崇徳天皇皇后であった異母姉の皇嘉門院が兼実を養子にして、邸宅で寝食を共にします。
また後に兼実の子である良通も養子にしています。
皇嘉門院は生前の治承4年(1180年)に自身が所有する最勝金剛院領など大半の所領を兼実の子である良通に譲っている。
そして皇嘉門院が亡くなると、兼実は「玉葉」に追慕を度々綴っていた。
この様に両者の関係は親密であり、九条兼実は皇嘉門院の供養として立派な経塚を造営しました。
初期の経塚は平安時代の末法思想により流行った風習ですが、後半になると経塚は、末法思想だけではなく、死後の極楽往生や現世利益などの願いが重視されるようになった。
稲荷山経塚の場合は、「玉葉」の記述によると、皇嘉門院の供養だけではなく、戦乱等で亡くなった霊魂を弔う目的があった。
この様に稲荷山経塚にはさまざまな願いが込められました。
こうした経塚の特徴から、当時の人々の祈りや願いの様子がうかがえます。