意識しないと、見逃してしまう感じです。
葛西を守っていた堤防跡の歴史が楽しめます(^^)。
昔はここより南が海だったらしい。
都道450号線東方面から江戸川球場裏を右折して南下していく道をたどった形がちょうど陸と海の境となっているとか。
ちなみに清新町IC辺りもしばらくはミジンコのいる湿地帯だった模様。
この辺はランナー、サイクラーの聖地なのかな。
堤防を下って葛西の海へ出る。
この風を感じて走る。
何も考えず、ひたすら風を感じて。
意識しないと、見逃してしまう感じです。
昔の堤防は低かったと、改めて感じます。
堤防の先で昔は漁をしてたんでしょうね。
昔、清新町と臨海町が浅瀬の海だった時代に役割を果たした堤防です。
河口付近の民家が地盤沈下で水没したこともありましたが、70年代に東京都が葛西沖開発事業を実施したことがきっかけで埋立地が作られ、現在の清新町と臨海町が誕生しました。
昔の堤防昔はこれより先は海でした埋立地ということを再確認できる場所。
散歩にいかが?荒川を眺めながらテクテク歩いて対岸まで。
晴れの日は最高です。
昔の堤防の一部が残されており、ここに堤防があった事が伺い知れます。
こうした場所は大切に残していきたいものですね。
愛犬とのお散歩で歩きました。
なかなかの距離でした。
スーパー堤防も作られて舗装など路面の整備はされていますが、端に行くほど公園と言うには程遠く、いまいち小汚ない印象でした。
江東区もプロを交えて真剣にデザインしないと『やはり南砂』で終わってしまうと思う。
ちょっぴり残念。
ここから先は海だったということを示す記念碑的な堤防跡。
残存部分が少ないのであまり堤防という感じはしません。
碑に説明板があり、下のように書かれてました。
今では懐かしい潮の香りの中、ひっそりとたたずむ旧葛西海岸堤防。
その淵源は、遠く江戸時代にさかのぼり、潮除堤(しおよけつつみ)が築かれておりました。
かつての葛西沖には、三枚洲と呼ばれる遠浅の海岸が続き、魚介類の宝庫として、そこに暮らす人々に大いなる恵みを与えておりました。
しかし、この豊穣の海は、台風や高潮などで度重なる被害をもたらす脅威でもありました。
堤防の強化は、住民の切なる願いでありましたが、その願いとは裏腹に、第二次世界大戦の勃発や戦後の資材難と労力不足により事業は遅々として進みませんでした。
こうした中で、1949年9月に東京湾を襲ったキティ台風による高潮は、江戸川区内だけでも被害者6万2千人余りの甚大な被害をもたらしました。
この災害を重大に受け止めた東京都は、早速、堤防工事に着手、1957年3月に延長4,461mの葛西海岸堤防が完成いたしました。
その後、急速な都市化が進む中、地下水くみ上げなどによる地盤沈下で、堤防の嵩挙げ工事を繰り返さざるを得なくなり、伊勢湾台風規模にも耐えられる現在の高さの堤防として完成させるのに、1967年までかかりました。
しかし、一方で、堤防は人と海との関りも遮断してしまいました。
そのころ、東京湾の汚染は葛西沖にも押し寄せ、人々に魚業権を放棄させ、さらに、止むことのない激しい地盤沈下は、住民に新しいまちづくりを行う決断を強く迫りました。
そして、意を決した葛西の人々は、ひとかたならない勇気と決断、そして熱意で7地区575haの組合施行の土地区画整理を断行いたしました。
その後、東京都も葛西沖開発土地区画整理事業を完成させ、380haにも及ぶ防潮堤の役割を兼ね備えた新たな土地を生みだしました。
こうしてかつての葛西沖は、清新町や臨海町として生まれ変わり、さらに、葛西臨海公園には美しい海岸線も見事に甦り、海岸堤防は、葛西の大発展を見守りながら、その役目を終えました。
そこで、ここに旧葛西海岸堤防の一部を残したことを記した碑を建立し、海と共に生きた葛西の姿と先人たちの偉業を永遠にとどめたいと思います。
元々は海岸線だったところです。
堤防自体は度重なる台風による風水害の後1951年に着工して、1957年に完成したそうです。
今は記念碑的にこの一部分しか残っておりませんが、かつては地面から4~5メートルの高さで車も通れる程の幅があったそうです。
その後は江東区、港区同様東京湾の埋め立てや宅地化が進み1972年には堤防の外側の埋め立てが始まった為にお役御免となったようです。
私は当時の事は知りませんが、当時を知る方や歴史の好きな方、ノスタルジーに浸りたい方は見に行ってみては?
昔は新左近川沿いに、この堤防が延々とありました。
懐かしいですね。
名前 |
旧葛西海岸堤防 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
旧葛西海岸堤防の位置関係は「中葛西の東葛西の日本ロール(株)の位置関係が同一線内(裏側は浅瀬です)」と成りますので、口コミされて居ります皆様はご見識の、航空地図及び小島1、2、3観測井の内容、旧葛西海岸堤防跡(南側の堤防先は海の底です。
その手前に海の底ですのでレリーフや石碑は出来無いのです)は明確な証と成ります。
況して江戸幕府の初期では更に「陸地が江戸川区域の殆んどは江戸湾の底」です。
可笑しな事がご座居ます。
区役所のレリーフと「浅瀬より中瀬近い場所を(海の底)」「旧堤防跡より更に北側(手前です)に陸地側に旧葛西海岸堤防の証があった事と私も自然で明白な回答かと存じます。
旧堤防跡は海の底の浅瀬~中瀬の地に向井将監(将監は官位です)の鼻と称する場では座礁する浅瀬は危険な場所に船団の船着は不能です」ので、口コミの皆様はご存じの通りですが「向井将監の鼻(海の底)」があったと称する「レリーフと石碑を設置して居る事は」何度もコア層の調査や航空写真を地質学的にて研究しても説明が出来ません。
将監の鼻の石碑の場所は「当時は江戸湾の海の底」が解りました。
区役所及び学芸員等々と矛盾して居り勘違いなのか、区役所及び学芸員等々は江戸幕府初期の葛西地域の歴史や田畑等々で低湿地帯で殆んどは「海の底」を知らないかと思います。
欠礼や行き違い等々の切はご容赦下さいませ。
本所(墨田区)亀沢町6代末孫。