名前 |
鉾塚神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
福塚に残る『鉾塚』今もなお『鉾塚』は伊福部民の誇りとして、ココにあります。
『鉾塚』の由緒については、『伊冨利部神社由緒』で書かれている様に、深く倭姫と繋がりが有ります。
倭姫は甥の倭建(ヤマトタケル)に草薙の劔を与えた人物で、八咫鏡を持って伊勢神宮を創建された姫様です。
今でも、この一帯には、劔神社や倭建、倭姫を由緒にする神社が点在し、倭姫の巡幸はこの地区にとっての誇りとなっています。
それは、倭姫の巡幸のおりには、すでにココには大きな集落が有り、倭姫一行の滞在を支える人々がいたことでもあります。
2018.2019年に調査された、福塚前遺跡の発掘調査からも、それをうかがうことができます。
当時、この福塚という場所は、濃尾平野の肥沃な土地に住み着いた、伊福部の民の楽園となっていたのでしょう。
伊福部の民の歴史は、古代中国より続いています。
ある学説では、伊福部の民の祖先は、中国西北部に住む彝族(イ族)で有ったとされます。
彝族の創世神話である「六祖神話」(ꆃꎭꆈꌠꊨꏦꏱꅉꍏ)の中では、洪水により、世界にたった一人生き残された「仲牟由」という男性が、三人の仙女と結婚し、六人の息子が生まれ、この六人の息子が各地へと移り住み、各地のイ族の祖先となったとされています。
しかし実際には、中国西北部の牧畜民であった祖先の「羌(きょう)人」が中国西南部より南下するなかで西南部に住む農耕民と融合し、イ族を形成していきました。
やがて、山東半島青島にたどり着いたイ族は、海を渡り、伊都(イ渡)国を造り、ワニ族・ワ族と共に、日本国に組み込まれていきました。
そもそも、イ族という呼び名の『彝』(イ)は、当時の中国の人達が呼んだ二つ名です。
この『彝』の持つ意味は、優れた青銅の「祭器」という意味以外でも「彝訓」「彝憲」「彝倫」と呼ばれ、ル-ルを表す意味も有り、優れた文化・文明を持ち合わせていたことを感じさせます。
日本国の一員となったイ族は、金属精製の技術を持って、東征を進めていきます。
中国の時と同様にイ族は、各地域で融合し、仲間を増やしながら勢力を拡大していきました。
新たにイ族に加わった仲間達を、イフリ(イのフリ)やイフク(イに含む)などと呼ぶようになります。
この木曽川流域の中島地域では、イオリ姫(景行天皇皇女の五百木之入日賣命)を迎え入れ、統治を行うようになっていくのでした。
伊福部の民達は、自分たちを区分するために、呼び名を少しづつ名前を変える習慣があります。
それは、この地域でも地名に残り『イの証し』となっています。
福塚地域では、伊福部をとって、『福塚』、もう少し西の方には、伊冨利を表す、『富塚』という地名があります。
そして、今でもなお『鉾塚』は伊福部民の誇りとして存在しています。