現在はその遺構は残っておりません。
いろは坂を登り切ると眺めの良い高台がある。
城跡らしい。
京王線聖蹟桜ヶ丘駅の西口改札口前に南の方向で桜通り道でいろは坂の道路が見える所に曲がって約15分歩けます。
いろは坂の上に標柱があります。
景色が良いけど、標柱の所に天守跡と土塁などがなんとも無いんです。
昔、天守閣跡があったらしい絵物プレートが残されています。
天守台こ標柱(説明)がありますが遺構はないようです。
しかしこの地域は新田義貞(反幕府)と鎌倉幕府勢の古戦場等々もあり楽しめます。
聖蹟桜ヶ丘駅から、いろは坂を上りきったところにあります。
桜の時期はいいですね。
現在は跡としての石碑が建っているのみになっていますが、眺めがとてもよかったです。
素晴らしい景色耳をすませばの聖地。
景色がよかったです。
階段が急であったが、夜来るべき景色であった。
今後行く機会があれば、夜に訪れたい。
いろは坂を登った先、住宅街の道路沿いにある。
特に残っている遺構は見当たらず、本当にただの「跡」である。
とはいえ、昔ここに何があったかを思うと感慨深くなる。
眺めはそこそこ良い。
史跡柱しか有りませんが素敵なところです🤗
今はすっかり山の上まで宅地化され、遺構は何も残っていません。
尾根筋の交差点付近に標柱が建っています。
今は城址としてではなく、むしろジブリの聖地として有名なようです。
聖蹟桜ヶ丘から来る場合、長いクネクネの坂を登るか長い急な階段を登るか選べます。
階段は時間は短縮出来るがキツイ。
ここ近辺を城山とも言われ武蔵野台地を一望できる場所であるそうです。
また鎌倉幕府の一つ義貞軍が北条軍を敗走させた後、この付近を陣を構えていたそうです。
現在は宅地造成などで多少地形が変わっています。
聖蹟桜ヶ丘がモデルになった ジブリ作品(耳をすませば)では 天守の丘として作品に反映されています。
関戸城は多摩市関戸の熊野神社あたりにあった霞の関所の西側の丘の上にあったようです。
その場を示すものとして、今は天守台(関戸城址)標柱があるだけですが、近くの金比羅社辺りも多摩川(北側)の展望が良い事ので、物見場として使われたことでしょう。
この金比羅社はジブリ作品の「耳をすませば」で主人公の雫が男子生徒に告白された場所です。
しかし、この周辺は住宅地開発で土地が改良されてしまっていて、城跡と呼べる遺構はありません。
以下さん戦国武将列伝のサイトより1494年8月には、扇谷・上杉定正が山内・上杉顕実を攻めた際に「関戸の塁」を落としたと記されています。
その関戸の塁は、この関戸城だと考えられております。
城山や天守台と言う名称が地元で継承されたのには、江戸時代に入ってからそのように名付けられたものではないかと推定されているようです。
関戸でもかつては合戦がありました。
鎌倉幕府が滅亡する直前の幕府軍と反乱軍との戦いです。
新田義貞が上野・生品神社で挙兵すると、たちまち大軍へと膨れ上がり、鎌倉を目指します。
これに対し、鎌倉幕府は討伐軍として北条貞国・北条泰家・長崎高重らにて迎撃しますが、小手指原の戦い、久米川の戦いと敗戦続きでついに分倍河原の戦いとなります。
これらも勝利した新田義貞らの軍勢は、翌日の1333年5月16日には、更に鎌倉へ進軍するため多摩川を渡ります。
分倍河原で敗れ退却していた鎌倉幕府の北条泰家は、この関戸の霞ノ関周辺で体勢を整えて、防衛戦を展開したとされ、これが関戸の戦いと呼ばれます。
そのため、霞ノ関には、北条泰家の家臣・横溝八郎や、安保入道の父子の墓と伝わる塚も、民家の私有地内にあるそうです。
ちなみに、北条泰家は小山田城経由で鎌倉へ敗走し、この関戸の戦いの6日後となる1333年5月22日、鎌倉幕府は滅亡しました。
金比羅宮の周囲の地形が切岸なのでしょうか。
かなり急な長い階段があり、眺めがよく遠方まで見渡せます。
守りやすく遠方の敵を発見しやすいという点で、山城に最適の地形だと感じました。
案内板が立っているだけです。
いろは坂は道(傾斜)の雰囲気が富士スバルラインにちょっと似てます。
かつて存在した関戸城の天守台跡となっていますが、現在はその遺構は残っておりません。
ここの近くにある金比羅宮が天守台と呼ばれていた模様です。
鎌倉時代にここからの物見台の拠点として使われていたようです。
名前 |
関戸城 天守台跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
元弘三年(1333)の新田軍鎌倉攻めの関戸合戦では、一帯が戦場と化し、義貞軍が北条泰家軍を敗走させた後、陣をこの台にすえた跡であることから「天守台」と言われるようになったとも伝えられている。
その後は、武蔵野合戦(1352年)、永享の乱(1438年)、明応三年(1494)の戦いなどで多くの軍勢が往来し、長い間要害の地として幾多の戦乱を体験してきた。
桜ヶ丘一丁目の金毘羅宮(琴平社)付近を「天守台」などといい、一帯の山を「城山」ともいう。
多摩川に面し、武蔵野台地を一望できる絶勝の地であることから、鎌倉幕府以来の物見台的城塞として敵を察知したり、急変を狼煙などで知らせる通信拠点であったとも考えられる。
一帯は関戸城跡とされているが、今はわずかにその一部を留めるのみで、山頂は削られ地形も変わっている。
多摩市教育委員会と書いてあった。