かつての知立城があった場所です。
住宅街の中にひっそりと佇んでいます。
現在、愛史協30周年キャンペーンで、近くの知立市観光交流センターに写真を見せると、無料で御城印が頂けます。
石碑があり、公園になっています。
お手洗いもあります。
昔に知立城があった場所です現在は公園で子供たちが遊んでいました。
大きな樹に パワーを感じる✨
案内板と石碑があるだけで、公園になっています。
ただ、旧東海道の折れ曲がった位置にあり、近くには池鯉鮒(ちりゅう)宿の名残が残っています。
往時はどうだったんだろうなと、思いを偲ばせます。
案内板と記念碑のみでここに城がかつてあったという遺物・遺跡・遺構らしきものがなかった。
大きな木に歴史を感じますがもう少し案内がほしいです。
また公園から直接入れる建物が多すぎる気もいたします。
知立神社の神官永見氏の居城で、今川が戦に敗れ落城してしまったお城です。
また、ここで明治天皇が休憩されたという碑も建っています。
詳しくは知立神社の神官永見氏の居城で、戦国時代には刈谷城水野氏と関係を深めていたが、勢力を拡大する水野氏と敵対する松平清康と関係を深め今川義元に仕えることになりました。
1560年、桶狭間の戦いでは途中、知立城も今川軍の本陣にもなっています。
しかし、その2日後、今川義元が桶狭間に倒れると敗走した今川軍を追った織田方によって落城してしまいました。
その後、刈谷城主水野忠重が、この土地に屋敷を建て、江戸時代はじめは、将軍上洛用の旅舎として使われましたが、地震で倒壊。
今は公園になっていて無邪気に小さな子供が遊んでいました。
(ちなみに知立城永見貞英の母は刈谷城主の水野忠政の娘であり、その妹は家康の生母であるお大の方。
また、永見貞英の娘はお万の方として徳川家康に嫁して結城秀康を産んでいます。
)
池鯉鮒(ちりふ=現・ちりゅう・知立)神社の神官を勤めていた永見氏の居館=城があった場所。
永見氏は在原業平の子孫だったと伝えられています。
現在は城址の碑が立ち案内板やトイレが整備された児童公園となっていますが、桶狭間の戦いでその直前に今川義元が陣を構えた場所で、敗戦後織田信長勢に焼き落とされ、徳川の世には御殿が建てられ将軍等の宿泊施設として利用されたそうで、御殿址の石碑もあります。
近くには井戸らしき遺構もありますが、詳細は不明です。
たまたま地元で研究されているガイドさんにお会いしてお話を伺ったところ、「桶狭間の戦いの時間を逆算すると、今川義元がここで朝食をとったと思われ、もし朝食をとらなかったら信長が狙っていた最もよいタイミングで狭間のいちばん狭いところに差し掛からず、討ち取られなかったのではないかと考えられます。
」との歴史的意義が深い地であったとのお話を聞かせて頂きました。
国道1号線(東海道)からみると高い台地に位置していたり、城址の前の道路がカギ形に折れ曲がっていたり、地形的にも楽しめるところです。
かつての知立城があった場所です。
現在は公園として整備されています。
大きな楠がシンボル。
知立神社の神主の御殿があった場所でのちの時代には饗応施設が設けられた。
近世では、明治天皇が、休息されたという碑が建っている。
東海道池鯉鮒宿の碑もあり。
公園になっています。
ちりゅっぴもここに来ています。
トイレが新しくて清潔。
名前 |
知立古城址 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
神職にあった永見氏の居城で桶狭間の戦いで落城。
現在は公園になっていますが遺構は残っていません。