桜が沢山ありとても綺麗です。
奈良之神社(ならのじんじゃ)主祭神 奈良別命合祀神 火産霊命 建御名方命 大国主命 大日孁貴命 彦火火出見命 木花咲耶姫命 素盞嗚命 豊宇気毘売命境内社 諏訪大社 愛宕神社 諏訪社 年行社 神明大神社 箱根神社 浅間社 八坂神社 伊奈利神社由緒中奈良村 熊野社 奈良四村の惣鎮守なり 本地彌陀・薬師・観音を安ず古は修験圓蔵坊が持なりしが 成田氏下野國烏山に移る時 圓蔵坊も随て移り 古記録も彼地へ携去し故 當時の傳詳ならず 今は長慶寺の持となる社内に奈良神社を合せ祀る 奈良神社は神名帳當郡四座の一なり想に舊章衰廃の後 熊野三社を合祀し 郤て地主神を壓せしなるか又別に奈良神社ありしが 破壊に及て此社へ遷せしかなるべし何様官社なれば 自徐の社と混ずべからず 故に次條別に神社の目を立つ 見るもの誤て二所とすることなかれ奈良神社【神名帳】幡羅郡小社四座の一なり今配祀する熊野社地平坦の地にて 喬木もなければ古跡とも思はれず何様變革ありしなるべけれど傳を失へり祭神詳ならず 本地不動の像を安ず 是中絶し神職退轉の後に 別當寺の習合せし態ならん末社 稲荷二宇 天神 金山 以上皆熊野の末社なるべし神楽殿 稲荷社 富引稲荷と號す 民持(「新編武蔵風土記稿」参照)奈良の地は利根川と荒川のほぼ中間に位置し、その地名は当地一帯が平坦部であることに由来しています。
当神社の南方約2kmのところに、古代の官道である東山道(後の中山道)が通っています。
社伝によると、下野国の国造の任を終えた奈良別命が、武蔵野の尾花の原(当地)を開いて美田となし、奈良郷の基を築いたことから、命が亡くなると郷民がその徳を偲んで建立し、祀ったものであるといいます。
当神社東北1kmの所にある横塚山と呼ばれる前方後円墳は、奈良別命の墓所であるという伝承があります。
奈良別命については「国造本紀」に、仁徳天皇の御世、崇神天皇の第一皇子豊城入彦命四世孫に当たる奈良別命が初めて下野国の国造に任命されたことが記されています。
「文徳実録」の嘉祥三年(850)五月十九日条によると、当神社は先の慶雲二年(705)陸奥国の蝦夷反乱に際し神威を発揮したことにより、式内社に列したとあります。
これは、武蔵国が東海道所属となる宝亀二年(771)以前は東山道所属であったため、兵士の集結所が北武蔵に設けられていた事と係わりがあると思われます。
古代、東北地方の支配拠点として築かれた多賀城(宮城県多賀城)の城跡出土木簡には、当地を含む幡羅郡一帯から兵糧と思われる米が搬入された記録があることも参考になります。
古代、当神社を奉斎した氏族については、恐らく、当地一帯を支配した奈良氏であると考えられ、「成田氏系図」によると、同氏は近隣の成田・別府・玉井氏などと並ぶ関東の名族の一つでした。
中世、全国的に隆盛した熊野信仰の影響を受け、社名を奈良神社から熊野神社に変更しました。
この社名変更の理由について「風土記稿」は、奈良神社は「延喜式」神名帳に収載される神社ですが、衰退して熊野神社を合祀したためか、あるいは、奈良神社が別の地にあって、それが破壊されたため熊野神社に合祀されたためかのいずれかであろうと記載しています。
恐らく、古代に創建された奈良神社は廃絶したのではなく、中世、その時流に合った熊野信仰を収容することにより社名を変えて存続したと考えられます。
戦国期、祭祀を行ったのは、幸手の不動院配下の年行事職を務める本山派修験円蔵坊で、円蔵坊は、忍城主成田氏所領のうち、騎西、幡羅を檀那場としていました。
しかし、円蔵坊は長く続かず退転したため元空坊がその坊跡を継ぎました。
円蔵坊の退転については、天正十八年(1590)に後北条氏に与力した成田氏が豊臣秀吉に降ったことにより、従来の庇護者である成田氏と共に下野国烏山に移転したとする説と、法憲を犯す不届きがあったため檀那場を追放されたとする説がありますが、「風土記稿」年行事社の項には、円蔵坊の亡霊が当地の村人に祟りをなすので「無私神」として祀り年行事社を建立したとあることから、恐らく円蔵坊は、成田氏に随伴して下野国に移転したのでなく、不届きから誅せられたものと思われます。
円蔵坊の跡を継いだ元空坊も長くは続かず、更にその後に僧長慶が入って長慶寺を建立し、以来同寺が江戸期を通じて当社の別当を務めました。
幸手の旧不動院所蔵の天正十九年(1591)の御教書によると、聖護院門跡道澄と関東の新しい為政者である徳川家康との間で、関東の修験については、後北条氏以来の地位を安堵することを約束していることから、長慶寺も従来の年行事職を引き継ぎ、天台宗本山派修験を務めたものと思われます。
更にこの時期、長慶寺は新たに紀伊国の真言宗高野山浄心院の末寺となり、慶安二年(1649)には、徳川家康により寺領二十石が寄進されました。
江戸後期になると、中世以来永く熊野神社としてきた当神社は、復古の思想興隆により、社名を古代の奈良神社に復しました。
拝殿内に掛かる天保年間(1830~1844)の「武蔵国四十四坐神 式内社」の額は、白川家門人の中村平兵衛ほか四名が奉納したもので、これらの者たちも社名復古に一役買ったものと思われます。
明治期に入り、本殿の熊野神の本地である弥陀・薬師・観音の三尊は長慶寺に移され、代わって神鏡が奉安されました。
(「埼玉の神社」参照)
一の鳥居よりくぐり、厳かな気持ちで参拝させて頂きました。
風格があります。
桜が沢山ありとても綺麗です。
武蔵國播羅郡鎮座の式内社、奈良神社に比定されている。
名前 |
奈良神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
048-527-0885 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.5 |
国道407号線からちょっと入った場所にありました。
常駐している人はいませんでしたが、お賽銭箱の横に御朱印が置いてあり、500円を入れればGET出来るようになっていて助かりました。