立派はお相撲さんを顕彰する石碑でした。
富岡八幡宮の本殿の脇道にございます。
身体の大きい力士に見合った立派な造りの石碑です。
富岡八幡宮では貞享元年(一六八四)に幕府の許可のもと初めて勧進相撲が行われ、以後年二場所の相撲興業が定期的に行われた事により江戸勧進相撲発祥の地として知られるよになりました。
初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれたこの碑は、第十二代横綱陣幕久五郎が発起人となり各界の協賛を得て本納されたものだそうです。
さすがに石碑も大変大きく立派なものです。
これとは別に参道の大鳥居手前には「大関力士碑」が建立されています。
思いのほか大きく、横綱のようにどっしりと迫力のある石碑です。
相撲好きの方は訪れたい場所ですね。
境内の奥にあります。
探さなければわからないけれど、日本の相撲の歴史が刻まれるわけで一度でいいから見学すると良さそうな碑。
現在までの横綱の名前が彫られている碑なので、観光に余裕の日程があるのなら立ち寄るとよい。
ひとりひとりの歴代横綱の名前を読むだけでも感慨深い。
なぜ、大相撲の最高峰である横綱碑が裏手にあるのは、大関より新しくできた碑だから。
実は横綱の歴史は大関に比べると浅かったりする。
古くは戦国時代に横綱はあったらしいけれど、制度として定着したのは江戸時代から。
富岡八幡宮の一画に建つ『横綱力士碑』は縦 3、5m横3mの岩盤に力強い書体で歴代横綱の名が刻まれている。
栃錦に初代若乃花の名を見て、“栃若時代”に小学生だつた頃、二人の取組の日には、朝からドキドキしていたことを想い出しました。
1600年代に約100年にわたり、この境内で春夏の年2回、勧進相撲が開かれ、今も新横綱誕生の刻銘式が行われ土俵入りが披露されています。
初代明石志賀乃助から稀勢の里までの名が刻まれて、次は誰の名が刻まれるのか?相撲ファンのひとりとして興味津々、楽しみにしています。
立派はお相撲さんを顕彰する石碑でした。
まだ、名前を入れることが出来るようにスペースがありました。
凄い迫力の石碑です。
富岡八幡宮の目立たない所にあります。
歴代の横綱の名前が彫られている碑迫力あります。
明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立された。
この碑及び副碑には、初代明石志賀之助から稀勢の里関までの四股名が刻まれており、その大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンに及びます。
横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる白御影石の石碑です。
貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が境内にて許される。
また、江戸初期に成田山信仰が隆昌となり、元禄頃には江戸庶民一般、特に花柳界や魚河岸、木場、角力界に普及して、成田山信仰が盛んになったようだ。
現成田山新勝寺東京別院 深川不動堂の御本尊も同じく境内にあった。
この横綱力士碑は明治33年に建立されたようで、初代明石志賀之助から67代武蔵丸関までの四股名が刻まれている、その大きさは高さ3.5m幅3mととても大きい。
某横綱の暴力事件を巡る、日本相撲協会の一連の騒動富岡八幡宮宮司の殺人事件これらの事件がほぼ同じ時期に起き、また富岡八幡宮の境内が相撲発祥の地と考えると不思議な因縁を感じます。
たまたまだとは思いますが。
稀勢の里が横綱になったときに訪れましたが、その時はまた名前は彫られていませんでした。
ですが、重厚な碑が見れて良かったと思います。
大相撲好きなら訪ねてほしい、歴代横綱の名を刻んだ碑。
初代は本当は誰なんだとか、諸説あるが、日本相撲協会やNHKは、この碑文の数え方を採用している。
相撲関連の碑がほかにも建っていて楽しい。
江戸時代の書籍にもよく出てくる釈迦ヶ岳の身長を示すものなどは、「ホントかよ」と思いつつも、当時の人々の驚きを我々にも共有させてくれる。
富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥の地としても知られ、しばしば境内で本場所も開催された。
特に明治維新以降、幕府や大名家の加護を失った相撲界が、神道との関わりを強調することで生き残りをはかったためもあり、当社と相撲との結びつきが強まった。
現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われるほか、相撲にまつわる数々の石碑が建つ。
横綱力士碑超五十連勝力士碑出羽海一門友愛之碑大関力士碑巨人力士身長碑釈迦ヶ嶽等身碑強豪関脇力士碑巨人手形・足形碑2013年6月6日日馬富士が横綱力士碑の刻名式に参加して、自らの四股名を刻んだ。
名前 |
横綱力士碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3642-1315 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.8 |
圧倒的な迫力があります。