日比谷通り沿いにあります。
赤穂浪士が討ちいった吉良邸跡、回向院、泉岳寺にも行きました。
浅野内匠頭終焉の地にも来られました。
3/14浅野内匠頭、無念の日にお参りに行ってきました。
きちんとしたお花とお菓子が供えられていました。
側に一本の桜の木が、優しくたたずむ姿にこちらまで慰められました。
赤穂浪士が好きな人は必見。
道を歩いていたら偶然発見。
親父が春先に慈恵医大で亡くなった。
2週間で出てくる予定の簡単な入院治療。
それがカテーテルからの細菌感染で元気な親父がわずか1ヶ月で還らぬ人となった。
浅野内匠頭が切腹の前に「風誘う花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」春風に散ってゆくさくらも名残惜しいが、それよりもこの自分が今散ってゆくこの思いはいかに無念か!4月頭になぜかこな桜だけ花を付けていた。
慈恵医大病院から新橋駅まで途中この句と桜を見ながら諦めと悔しさを抱えながら歩いた思い出の地です。
「忠臣蔵」浅野内匠頭終焉の地。
墓標と看板と言う質素な記念碑があります日本人の心に流れている一つの物語です。
😊善きに付き、悪しきにしても、日本を代表する江戸庶民の心意気を掻き立てる仇討ちですからね⁉️お預かりの場所は、奥州一ノ関藩田村右京太夫の上屋敷です。
昔の町名は、田村家にあやかってか、田村町でしたが、現在は西新橋です。
味も色気も親しみもない名前ですね⁉️しかし、港区からは、昔懐かしい名前を、歴史文化をシュレッターに、入れている港区です。
地元生まれの住民としては、寂しい限りですね。
素晴らしい建物も同様に、収益を求めて高層ビルに変わってます。
申の刻(午後4時30分頃)に田村邸についた長矩は出会いの間という部屋の囲いの中に収容され、まず着用していた大紋を脱がされた。
その後1汁5菜の料理が出されたが、長矩は湯漬けを二杯所望した。
田村家でも即日切腹とは思いもよらず、当分の間の預かりと考えていたようで、長期の監禁処分を想定し、長矩の座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。
申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付・庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹と改易を宣告した。
これに対して浅野は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。
宣告が終わると直ちに障子が開けられ、長矩の後ろには幕府徒目付が左右に二人付き、庭先の切腹場へと移された。
庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、長矩は磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。
享年35。
普通の街並みに溶け込む石碑。
帰りに新正堂さんに寄って帰る。
観光名所と言われると、大通りの交差点付近に有るのでなんとも言えない感じしますが、歴史を知ると感慨深い。
新橋を散策していたら、浅野内匠頭終焉之地を発見!!浅野内匠頭といえば、忠臣蔵でお馴染み!日本の風物詩 みたいなものになってますよね!こんなところにあったんですね☺️
浅野内匠頭が切腹したお屋敷があった場所。
一関田村藩のお屋敷跡。
有名な割には素っ気なく存在しているので見過ごしてしまいそう。
でも見つけるとほー、ここでか!と感無量二なります。
道路端なのでうるさいですが。
年末になるとテレビや映画で「忠臣蔵」が放送されます。
そのお殿様の浅野内匠頭の終焉の地です。
両国にあった吉良上野介の屋敷で仇討ちをしてそこから隅田川を渡りこの地を通って品川のお寺に向かったそうです。
主君の事を忘れず仇討ちしたことで歌舞伎の演目にもなり人気のある仇討ちだったとか現代では仇討ちは認められませんが江戸時代においては美談だそうで私たちには理解できない世界の話です。
江戸時代の人は1日に20キロから30キロを歩くのは普通ですから、両国から品川まで歩くことは当たり前だそうで現代人には真似が出来ませんね。
日比谷通り沿いにあります。
忠臣蔵で有名な浅野内匠頭切腹した田村右京太夫屋敷跡です。
日比谷通り沿いにありますが目立たないので見落としてしまいそう。
往時を思わせるものはありませんが、近くの和菓子屋さんで「切腹最中」を売っていました。
偶然通りがかって感激。
田村右京太夫屋敷跡。
浅野内匠頭が預けられた屋敷。
ここで切腹をして終焉。
名前 |
浅野内匠頭終焉の地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
忠臣蔵でおなじみの浅野内匠頭終焉の地の石碑江戸城内で刃傷沙汰を起こした赤穂藩主・浅野長矩の身柄を預かった一関藩主・田村建顕の屋敷跡元禄十四年3月14日(西暦1701年4月21日)幕府の1年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた勅答の儀を行う日の出来事江戸城内で刃傷沙汰があったのが巳の下刻(午前11時40分頃)↓こちらに移送されるのが決まったのが午の下刻(午後1時50分頃)↓江戸城不浄門より護送未の下刻(午後3時50分頃)↓申の刻(午後4時30分頃)田村建顕の屋敷着↓申の下刻(午後6時10分頃)宣告の後浅野長矩は即日切腹ことの始まりから半日もたたないできごとだったようです。
隣りには寄り添うように桜が一本あります。
風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残を 如何にとやせむ淺野内匠頭の辞世の句。