清水谷公園の中にあり、立派な石碑です。
贈右大臣大久保公哀悼碑 / / .
(2023/02/12 追記)紀尾井町通の議員宿舎前に大久保公の受難地を示す登録がありましたので、ここには何もないよという意味でコメントさせていただきました。
いつの間にやら消えており、当コメントも哀悼碑に紐づいています。
で、哀悼碑にコメントした文章や写真が消えています。
不思議ですね(笑)グーグルマップのこの地点には、特になにも見つけられませんでした。
早朝にうろうろしていましたので、議員宿舎のお巡りさんに怪訝に見られていたかもしれません。
ただ、このあたりで襲われたのは間違いないのでしょうからその意味でも想像力を働かせることができます。
隣接の清水谷公園に「贈右大臣大久保公哀悼碑」があり、そちらで解説を読むことができます。
現在の紀尾井町、清水谷公園内にひっそりとあります。
大久保利通卿、終焉の地です。
紀尾井町 清水谷界隈を散策した際に清水谷公園を訪れました。
哀悼碑は 園内に建っています。
説明文を読んで歴史の一端を知ることができました。
見に来てよかったです。
公園の中に大きな石碑があり、流石、明治維新の立役者と感心したりビックリしたり。
都心とは思えない森のような公園の中なので相応しいかと。
実際の場所は、議員宿舎の工事中なので、少し雑然としてます。
百合の紋章が気に入りました。
長州による明治維新乗っ取り ここに完結。
大久保公が襲撃された場所。
石碑はとてつもなくでかい。
これ以上立派な石碑を私は知らない。
別に石碑マニアでもないので、調べたりもしてない。
随分立派な碑です。
地図で「大久保利通遭難の地」などという説明を見つけ、区の教育委員会の立てた看板一枚でもあるのかと思っていたら、清水谷公園の真ん中に、明治21(1888)に建立された、台座から2丈(約6メートル)もあろうかという立派な碑がドーンとあった。
世に「紀尾井坂の変」という。
何であれ、テロリズムは憎むべし。
銅像と説明板があり、説明板には下のように書かれていました。
明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。
現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三にしむらすてぞう、金井之恭かないゆきやす、奈良原繁ならはらしげるら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」が完成しました。
「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。
石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。
地図で「大久保利通遭難の地」などという説明を見つけ、区の教育委員会の立てた看板一枚でもあるのかと思っていたら、清水谷公園の真ん中に、明治21(1888)に建立された、台座から2丈(約6メートル)もあろうかという立派な碑がドーンとあった。
世に「紀尾井坂の変」という。
何であれ、テロリズムは憎むべし。
ホテルニューオータニの正面にある。
かなり大きな記念碑。
紀尾井坂の変。
巨大な哀悼碑。
名前 |
贈右大臣大久保公哀悼碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
清水谷公園の中にあり、立派な石碑です。