丁寧に対応して頂き御朱印を頂きました。
若紫さんのお墓参り、新吉原総霊塔のお参りをしてきました。
初めて訪れたのでお墓の詳しい場所が分からずウロウロしていると、ホウキをはいていた用務員の方がすかさず声を掛けてきてくれて、場内の詳しい案内図を渡して説明して頂きました。
親切な対応に大変助かりました。
線香の購入などもその方が素早く対応、線香に火まで着けて頂きました。
線香二束で200円です。
最後に御朱印を頂いて帰りました。
御朱印は300円です。
大きな花魁の印が実に美しいです。
間違いました。
良いと星4つ打ちました❗️
母のお墓があり、毎月行きます。
穏やかな気持ちになります。
歴史的内容については、他の方に任せます。
歴史長いながら建物は近代的。
駐車スペースは若干あり。
入りにくいかもですが、ぜひ裏手に入って、社会の底辺で苦しみつつ、したたかに生きてきた人々を偲んでほしいです。
すぐそばには日本最大の売春街、吉原があることに思いを馳せつつ。
浄土宗のお寺さんです。
奇麗なコンクリのお寺さんに建て替わってました。
荷風さんの碑と新吉原総霊塔は初めて拝ませてもらいました。
最近はどこのお寺さんもお宮さんもそうですが、拝観者向けに分かりやすい案内書きに工夫が凝らされていて有り難いです。
首洗いの井戸(荒川区・浄閑寺)人斬り平井権八に親を殺された本庄兄弟は仇討ちのために権八の潜む箕輪へきたが。
兄助七が先に返り討ちにあいあえなく死亡。
弟助八は兄の死体から首を切り離しこの浄閑寺境内で洗っているところを権八に斬られ死亡した。
哀しい話である。
浄閑寺のその井戸は今も墓の中にある。
(写真)墓のそばにある木製の案内板は長い年月の風雨のため字も判読不能となっている。
井戸は訪れる人もなく墓地の中に静かに埋もれている本庄兄弟に合掌。
「生まれては苦界 死しては浄閑寺」(花又花酔の川柳)「山谷には、労働に生き労働に老いて、ひとり淋しく人生を終る人が数多くいます。
……ひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボルといえます。
」(「ひまわり地蔵尊」主旨)浄閑寺は、死んでも、死が意識されることのない悲しいひとたちを弔ってきました。
安政の大地震の時に亡くなった吉原の遊女たちが、投げ捨てられる様に(諸説あり)この浄閑寺に葬られた事から、投込寺の別名が付いています。
吉原に関した史跡だけで無く他にも史跡がありますので、近くに来た際はは是非とも訪れてみて下さい!
『投込寺』の所以を聞くと、いつの時代も社会的弱者の扱いは最低で、それは令和の世の中にも通じるものよと暗澹たる気持ちになります。
雨の中訪ねるものはあまりいないようで、ひっそりとした敷地内を静かに探索できました。
お寺の方も親切に色々教えて下さり、大変助かりました。
かつて無縁のご遺体を供養したことで知られる寺。
浄閑寺には、様々な史跡があり、自由に見学はできます。
一般の方のお墓の中にある史跡は、周囲に留意して見学させてもらいましょう。
お寺の方がいらっしゃったら、ご挨拶とお礼を言いましょう。
三ノ輪の明治通りと日光街道の交わる大関横丁交差点と常磐線の間にあるお寺。
江戸時代の吉原の遊女の(投げ込み寺)として有名。
江戸時代以前は、三ノ輪辺りまで海だった。
この辺りは岬のようになっており、(水の鼻)とも(水の輪)呼ばれた事から(三ノ輪)となった。
箕輪とも表記。
石神井川が王子から分かれ、上野台地の縁を通り、日暮里から箕輪を抜け、日本堤沿いに流れる川を(音無川)と呼んだ。
場所によっては、滝野川。
今の日光街道を横切って浄閑寺の南側辺りを流れていた。
日光街道に架かっていた橋が、(三ノ輪橋)。
都電荒川線の駅名の元となった。
この音無川の先の浅草方面に、新吉原と呼ばれた遊郭があった。
江戸時代の安政の大地震の際に、遊女の遺体がこの寺に持ち込まれた事から、(投げ込み寺)の名前がついたらしい。
今では、日本堤も音無川も三ノ輪橋も見あたらない。
音無川のあった先の方角には、ビルの間から巨大な東京スカイツリーが見えていた。
浄土宗栄法山清光院浄閑寺。
1855年(安政2)安政の大地震において、吉原遊廓で被災し亡くなった遊女の遺体が葬られた。
丁寧に対応して頂き御朱印を頂きました。
住職さんがとても親切で大変気持ち良く会話が出来大変気持ちが落ち尽く。
自分の病気で悪い所があればお地蔵様の身体を撫でると身代わりになり、治ると昔から言われているようで 首から上の場所は、かなり撫でた後がある❗
こじんまりしたお寺さんです。
社務所の人が大変親切丁寧の応対して頂きました。
新吉原の投げ込み寺だった場所。
ご住職さんが近くに永久寺があるので行ってみなさいと紹介されたが、閉鎖的な寺で、中に入れませんでした。
夏場より、冬の時期が 存在感のあるお寺です。
浅田次郎の"天切り松闇がたり"で松蔵のお姉さんが弔われたところかな。
江戸時代には新吉原の遊女が投げ込まれたお寺、永井荷風が訪れ歌碑が残されている。
波乱に満ちた人生を歩んだ当時の遊女達へ、手を合わせました。
江戸時代の投げ込み寺。
薄幸だった女性たちに手を合わせてきました。
名前 |
浄閑寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3801-6870 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
「吉原の遊女の病死した者、心中した者は、お経も読まずお墓もなくて、ただ、お金二百文添えてこの寺に送って惣墓 (そうばか) という穴の中に投げ込む…」市川雷蔵主演の「眠狂四郎 勝負」の中に夜鳴きそば屋の看板娘がこう話す場面があった。
柴錬の原作にはなかったストーリーの中で、狂四郎はこの浄閑寺の庫裡 (くり) が住処になっていたが、それは柴錬の公認だったようだ。
今は惣墓があった場所には南京錠が掛けられ中には入れないが、写真家のアラーキーは実家の下駄屋が浄閑寺の目の前だったので、寺の境内や惣墓もアラーキーと同窓生たちの遊び場所だったらしい。
浄閑寺のHPによると、安政2年 (1855年) に起きた安政の大地震で大勢の新吉原の遊女が廓の中で死んだ時、この寺に投げ込まれ葬られたことがそもそも“投げ込み寺”と呼ばれるようになった由縁だという。