名前 |
護持院が原跡碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
公園名石碑の裏に「ごじいんがはら」と刻まれている。
護持院が原とは、都市防火目的で空けられたオープンスペース・火避け地のこと。
1717年(享保2年)に起きた小石川馬場火事で焼失した「護持院」というお寺の名前から取られている。
護持院が原の範囲は、この区画から共立女子学園の区画までに広がっており、見晴らしはかなり良かった様である。
古地図を見る限り、護持院自体はこの区画の一部に建っていたに過ぎない。
なので、「護持院が原は護持院の跡地」という説明は、やや正確性を欠く表現だ(ネット上によく見られた)。
また、火避地になったと同時にこの区画の東側が将軍家の馬場が作られ、更に享保年間には御放鷹場として指定されたそうである。
しかし、それもこれも今では見る影もなく、この碑石だけでは、何ともやる方ない。
なお、1890年の観光案内本である東京名所絵図には次のようにあった。
『護持院原は、神田橋と一ッ橋との間の濠外を云う。
往昔、この所に大塚の護持院ありしが、享保年間回禄の後ち空地となる。
往時は林泉の形残りて、すこぶる佳景なるを以って夏秋の際は都人の遊覧を許され 冬春の間は将軍家の遊猟場となす。
故に、新駒ヶ原とも称す。
維新後、学習院及び東京大学校、開成学校、東京語学校、体操学校等の校舎を新築せられ、現今また学校を他に移して追い、移して追い、人家を建設せらるるに至る』