名前 |
育德泉の碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.5 |
ウォーキングで巡る那覇の河川・樋川・井戸・湧水その103 【那覇市字真地】2020/12/12①場所(識名園内)●敷地内の御殿の南側、心字池の西側にある井戸。
●この辺りは識名御殿原(シチナウドゥンバル)と呼ばれ、識名園造成(1799年)以前は赤川原(アカガーバル)であった。
乾隆検地(1737~1750年)によって作られた「間切島針図」の一部を撮影した古写真から、識名園周辺は赤川原とわかる。
旧真和志の歴史民俗地図(昭和初年頃)にて、識名園の周辺は御殿原の記述がある。
②育徳泉(イクトクカー)●育徳泉は清冽な水をたたえ、心字池の水源の一つにもなっています。
琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」にして,巧みな曲線が優しい美しさを感じさせます。
また井戸口は右手にもあります。
●心字池の池敷は元々湿地であった場所と造園のために島尻粘土(クチャ)を造成した場所に区別される。
2つの源流があり、1つは育徳泉、もう1つは湿地部で地下水が地表へ穏やかに湧き出している。
●また、園内の湧泉(育徳泉)には、淡水の紅藻類であるシマチズジノリが自生している(国の天然記念物)●識名園には井戸が2箇所ある。
1つは育徳泉。
もう1つは番所と駕篭屋の近くにある。
こちら井戸については、識名園の方も詳細不明らしい。
●育徳泉碑には、易経四十六卦の一つ、大象伝の「山水蒙」の言葉が刻まれていて、育徳泉の由来となっている。
易曰山下出泉蒙君子以果行育徳えきにいわく、さんかにいづるいずみあるはもうなり。
くんしもっておこないをはたしとくをやしなうべし。
【意訳】易経より、山の下に湧く泉はどこに流れるかわからない。
(蒙昧であれば、このままどこへ行くのかわからないまま流されるしかない。
) だから君子ならば、行いを果たして(行く目的地を明らかに見定めるために)徳を養うべきなのである。
③石碑●二基の石碑が並んで立てられている。
向かって右側の碑は、嘉慶5(1800)年に来琉した尚温王の冊封正使の趙 文楷(チョウブンカイ)が題した「育徳泉碑(イクトクセンヒ)」、左側のそれは道光18(1838)年に尚育王の冊封正使の林 鴻年(リンコウネン)が題した「甘醴延齢碑(カンレイエイネンヒ)である。
④拝所●甘醴延齢碑の左横に香炉があり、拝所となっている。
この拝所については、識名自治会の方よりお話を伺いました。
●識名園造成前は、あの辺りに集落の人が拝みをする拝所と井戸があったが、中に入れなくりそのままだと拝みができないので、識名園の外に拝所を作って拝んでたとの事。
●識名園の正門の外、道路沿い南側に香炉が3つあります。
⑤識名園●識名園(俗にシチナヌウドゥンと呼ぶ)は、琉球王家最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。
1799年につくられ、1800年に尚温王冊封のため訪れた正使として趙文揩(チョウブンカイ)、副使として李鼎元(リテイゲン)を招いています。
王家の別邸としては1677年、首里の崎山村に御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)がつくられました。
現在の首里カトリック教会がある所です。
首里城の東に位置したので「東苑(トウエン)」とも呼ばれ、その後につくられた識名園は、首里城の南にあるので「南苑(ナンエン)」とも呼ばれました。
●識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした「廻遊式庭園」です。
「廻遊式庭園」は、近世に日本の大名が競ってつくるようになった造園形式ですが、識名園では、「心」の字をくずした池の形(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチが配され、池の周囲には琉球石灰岩を積みまわすなど、随所に琉球独特の工夫が見られます。
●識名園はかつて、春は池の東の梅林に花が咲いてその香りが漂い、夏には中島や泉のほとりの藤、秋には池のほとりの桔梗が美しい花を咲かせ、常夏の沖縄にあって、四季の移ろいも楽しめるよう、巧みな配慮がなされていました。
●1941年(昭和16年)12月13日に国指定「名勝」となりましたが、1945年(昭和20年)4月、第2次世界大戦の沖縄戦で破壊されました。
1975~96年(昭和50年~平成8年)総事業費7億8千万円をかけて復元整備され、1976年(昭和51年)1月30日国指定「名勝」、2000年(平成12年)3月30日に国指定「特別名勝」となりました。
2000年(平成12年)12月2日には、ユネスコ世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)として登録されました。
指定面積は41