何気なく歩いてて偶然に見つけました。
和田岬をはじめとする兵庫津、大輪田泊を整備し、福原京を首都と置いた平清盛を供養する北条貞時が築いたとされる十三重塔、鎌倉殿の13人をみた後なので13の一致の偶然にニヤリ。
平清盛の銅像は松平健さんに似ている。
平清盛の縁を探して、この地に来た時、まず目に入るのがこの清盛塚でしょう。
神戸と清盛の間柄をうかがい知る一番のものは、この兵庫の沿岸部の地自体、それが、清盛の開発事業によるものですが、その痕跡となる印と以外に少ないものです。
そういう意味ではこの七百年余り立つこの供養塔は貴重な存在。
享年64の年で突然この世を去った平清盛。
摂関政治・院政期の混乱期の中、平治の乱を制し、貴族に仕える武士の身でありながら、太政大臣迄上り詰め、孫の安徳を天皇とし、自らは外戚となり、政治の実権を握り、一時は平家一門栄華を極めたものの、そのため各方面の反感を買うこととなり、治承・寿永の争乱に至ると、ライバルの源氏勢に子息の平家一門が次々と敗北、晩年は、不安と失意の中で死を迎えることとなったのではと思われる。
清盛死亡後、残された平家一門は、一の谷の戦い、屋島の戦いでも敗北、4年後の壇の浦の戦いで遂に滅亡することとなった。
確かに清盛の生涯は、琵琶法師に平家物語で語られている「盛者必衰の理」を体現しているようである。
また栄華を極めた清盛であるが、突然の高熱で死亡したとされ、その原因や遺骨の所在もはっきりしないのは不思議である。
しかし平清盛は、一面この地で経ヶ島を造り、大輪田の泊を修復しようとしたり、京都から福原に都を移したりし、地元神戸の街の発展の基礎を築いた恩人であり、ちまたで言われる独裁者では決してなかったとされる。
清盛の像と言えば、京都の六波羅蜜寺の像が有名であるが、ここ清盛塚の像も晩年の清盛の表情を彷彿させるようで、とても良い。
両手を胸の前に置いているのは、 清盛自身熱心な法華経の信者であり、自らは太政大臣に上り詰めたが、政治の表舞台は一門の息子たちに任せ、自らは出家し、仏門に入り、僧侶となり、一切経を大事に抱えながら最期を遂げるポーズであると思われる。
また大輪田泊を修復するときも、人柱を嫌い、経文を書いた石を沈めたりもしている。
清盛塚石造十三重塔、また平清盛の弟の経盛の長男で琵琶の名手の経正の墓とされる。
琵琶の名手の経正の弟に、笛の名手の敦盛がいるので、音楽に特化した家系だったのかな。
この平経盛の塚は明治時代に碑が建てられた模様。
場所は大正時代の道路拡張で現在の場所に移されてるよう。
清盛塚や、琵琶塚(経正)、須磨に敦盛塚と平家の興亡 = 平安時代の終焉から鎌倉時代の幕開けという歴史を感じるスポット。
清盛塚十三重石塔、弘安九年(1286)2月日の銘有り。
裏に相輪が2本程転がっておりました。
弘安と言えば元寇を思い出します鎌倉時代の兵庫の人達からえらく慕われていたのですねぇ。
兵庫の湊清盛、昔ばなし時代は神戸港へと移り変わり世界へと思いはつづく。
向かいの焼肉屋さんから良い匂いが漂ってきます。
平清盛の慰霊塔と琵琶塚があります。
平清盛の墓ではありません。
巨大な供養塔と清盛の銅像が建っています。
当時をしのぶよすがは、近くの運河くらいなのかなあ。
当時の輪田の泊の様子は、よく分かりません。
県指定文化財 清盛塚石造十三重塔指定年月日 昭和三十五年五月十二日所有者・管理者 神戸市この石塔は古くから清盛塚と呼ばれ、北条貞時の建立とも伝えられています。
当初は現在地より南西11mにあり、平清盛の墳墓とも言われていましたが、大正時代の道路拡張に伴う移設の際の調査で、墳墓でないことが確認され、現在地に移設されました。
石塔は、高さが8.5m、初層は一辺145cm、最上層は一辺88cmを測り、基礎部台東面の両脇に「弘安九」「二月日」の銘があり、弘安九年(1286)に造立されたことがわかります。
石塔の隣には、神戸出身の柳原義達の作になる平清盛像が建てられています。
今なお清盛塚は、地域の人々によって敬われ、大切に守られています。
道路拡張時に北側に11メートルほど移動したとの事。
その際に清盛の墓であるとの説もあったが何も出てこなかった様です。
大河ドラマのブームが去った今となっては、閑散とした雰囲気でした。
ただ、一時代を築いた英雄であり、記憶に残す意味で、大切に保存すべきモニュメントと言えるでしょう。
諸説ありますが、『平家物語』には、清盛の遺体は愛宕で火葬にふされ、遺骨は側近の円実法眼が頸にかけて摂津の国に下り、経ヶ島に納めたと書かれています。
この為、清盛塚(十三重石塔の方)が、清盛の墓と伝えられてます。
(鎌倉幕府執権・北条貞時が清盛の供養のため、弘安9年2月に建立)他にも『吾妻鏡』では、遺言によって遺骨は播磨国山田の法華堂に納められたとも書かれています。
播磨国山田は、明石海峡を望む景勝の地で、平氏の海陸拠点の一つであったらしい。
歴史に思いを馳せながら、どちらの清盛公にもお参りするのが良いかも知れませんね。
しかし、この周辺は平清盛公に連なる史跡が沢山あり、散策が楽しいところです。
イオン神戸南も出来たし、ショッピングまで幅が広がりましたね😊
諸説ありますが、『平家物語』には、清盛の遺体は愛宕で火葬にふされ、遺骨は側近の円実法眼が頸にかけて摂津の国に下り、経ヶ島に納めたと書かれています。
この為、清盛塚(十三重石塔の方)が、清盛の墓と伝えられてます。
(鎌倉幕府執権・北条貞時が清盛の供養のため、弘安9年2月に建立)他にも『吾妻鏡』では、遺言によって遺骨は播磨国山田の法華堂に納められたとも書かれています。
播磨国山田は、明石海峡を望む景勝の地で、平氏の海陸拠点の一つであったらしい。
歴史に思いを馳せながら、どちらの清盛公にもお参りするのが良いかも知れませんね。
しかし、この周辺は平清盛公に連なる史跡が沢山あり、散策が楽しいところです。
イオン神戸南も出来たし、ショッピングまで幅が広がりましたね😊
毎日通る道にある清盛塚。
舞鶴、博多、神戸は、平清盛の全盛期に造られた港で中国との貿易のために清盛が静な港町を大きくした清盛が居なければ3港とも小さな港で終わってた兵庫と言う地名も平家の兵士の詰所と宝庫言う意味があり縮めて兵庫西国に平家の存在を知らしめるため、源氏や他の豪族が逆らえば何時でも倒せるぞと言う事を知らしめるため重要拠点を置いた各地に貿易と軍事の拠点を置いたのは、ものの輸送費を減らす事も考えていたが貿易で手に入れたものをイチイチ動かすのでは、無くて平家の拠点に置いて行けば❗もし京都で何かあって財産が(合戦や火災)消失しても拠点に逃げてくればまた政務や生活に困らないと平清盛は、考えていたとNHKの番組でやっていた(京都は、1つでない)清盛自身が居ればどこでも都に成ると言う考え方清盛の子供たちは、清盛の考え方をくみ取らず、京都に固執していたずらに兵力をそぎ(京都は、大切だが京都の貴族への付け届け)付け届けとは、賄賂(わいろ)当時の貴族は、賄賂がないと嫌がらせ特に武士には、多額の賄賂を要求して御所の門を通るにも現在のお金で40万円ほどの賄賂を門番の下級貴族が徴収していた‼一部が中級貴族と上級貴族にも流れていた清盛が生きていた頃は、門番も賄賂を要求して来なかったのが清盛の権威の絶大さがわかる‼清盛の亡くなった後は、また貴族達による賄賂があって平宗盛などは、大人しく払って居たと言う財産が極限まで減った状態で源氏に負けてしまった(御所を通るたびに40万円払わされる)清盛は、前の都である奈良にも目をつけて居て奈良にも平家の拠点を造ろうと頑張っていたようだ三重県編集紀州鉱山(きしゅう)… 金・銀・銅・鉛・亜鉛・黄銅鉱・螢石・錫(1978年5月閉山)石原産業(株) -南牟婁郡紀和町山田鉱山(やまだ) …銅・鉛・マンガン(1970年代閉山)岡田鉱業所-伊賀市(阿山郡大山田村)丹生鉱山(にゅう)… 水銀・黄鉄鉱(1973年11月閉山)大和金属鉱業(株)-多気郡多気町(勢和村)この鉱山も平清盛が開山して壇之浦の合戦で平家が大敗して閉山されていた❗ものをのちの人間が再開した。
神戸福原に都を置いた、平 清盛公。
少し離れた所から移築された琵琶塚と共に並び、清盛塚は立っている。
何気なく歩いてて偶然に見つけました。
意外に知られていない名所です!歴史好きには堪らないと思います。
そこの近くにある兵庫大仏の方が感動した。
名前 |
清盛塚 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.feel-kobe.jp/facilities/detail.php?code=0000000094 |
評価 |
3.8 |
十三重の石塔もいい。
清盛像は、六波羅蜜寺のものより認知度は落ちますが、結構有名です。
イオンモールやだいぶつ様のある能福寺の近くです。