日野宿が経営していたそうです。
新奥多摩街道の「錦町下水処理場前」の信号から入った道が、旧甲州街道になります。
下水処理場の門を通り過ぎ、突き当りの三叉路の左側に、日野の渡しの碑があります。
渡し場そのものの遺構は残っておりませんが、すぐ先の堤防に上って多摩川を眺めて、当時の様子を想像することはできそうです。
少し下流に「万願寺の渡し」があったが、多摩川の氾濫による改修後の貞享元年(1684)に「日野の渡し」として場所が変わる。
対岸の日野側は教育委員会の写真付きの説明板だが、こちら立川側は立川観光協会の立派なモニュメントが関頑亭さんの書とともに建つ。
隣には歌人の上岡芳一の多摩川を詠んだ歌碑がある。
明治時代の地形図を見ると当時の多摩川の流路は現在よりも少し南にあり、渡船場もここよりも300m程南にあったようです。
渡船は日野宿の管理でした。
現在の立日橋のたもとから南の甲州街道に至る道路が旧甲州街道で、日野の渡しと日野宿を結んでいました。
今はその面影もなく石碑のみで知るばかりです。
残堀川の注ぎ口で浄水場もありどれが渡し場なのかもわかりません。
立日橋の少し下流にあります。
近くにホームレスとかがいるのがちょっと。
モニュメントがあるだけ。
多摩川はすぐそば。
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旧甲州街道の一部で、多摩川を越えて日野宿へと向かう渡し船へと向かう道でした。
石碑とオブジェがある程度なので少々物足りないかもしれません。
柴崎市民体育館の東側の坂道にある、旧甲州街道の案内看板と合わせて見てみた方が理解が深まると思います。
市民プールの時に利用。
名前 |
日野の渡し跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
日野の渡しは府中宿と日野宿を結ぶ渡し舟で、日野宿が経営していたそうです。
多摩川を越える日野の渡しは、夏の渇水期には仮土橋で渡り、冬場は舟渡しでしたが、1824年(文政7年)からは通年、舟渡しになりました。
日野の渡しは1684年(貞享元年)頃から、現在の日野橋ができる1926年(大正15年)まで続けられました。