伊賀留我神社の歴史を感じよう!
伊賀留我神社の特徴
伊賀留我神社は、綺麗に管理された境内が印象深い神社です。
富田地方最古の由緒ある神社として、多くの信仰を集めています。
道路脇には、正三位伯爵冷泉為紀の書による巨大な石標があります。
三重県道8号(伊賀留我神社前交差点)北東に鎮座境内、建造物等綺麗に維持・管理されているお社です。境内には「平和の礎(いしずえ)碑」が建立されています。※資料を引用しご紹介します。【伊賀留我神社(いかるがじんじゃ)】主祭神:(主)大日霎貴命 (配)大山祇神由緒「延喜式神明帳」、伊勢国朝明郡の一社伊賀留我神社と考えられる。鵤村は「神鳳鈔」にいう、鵤ノ御厨房三丁目の地であり、当社名も古くは「斎宮大明神」とも呼ばれ、神屋との因縁も深く祭神が奉斎されてきた。御座清直の「神社検禄」には当社所蔵の古祭文(現不詳)に貞観三年(八六一)、六人部津根呂が当社旧殿を新修したとすることを、「三代実録」、同年六月二〇日条の「伊勢国朝明郡六人部津根麿妻泰美豆岐一産三男賜稲三百束充乳母一人三ケ年間給以公粮」の恩賜を感謝してのこととする。鵤村は近世寛永年中南北二村に分れ、北は桑名藩の茂福村に、南は忍藩の羽津村に属することとなった。その後両村に祀られていた伊賀留我神社は安永八年(一七九九)本社末社の争論が起こったが、両社の資料がそろっていない今、これを論ずることは控えたい。
いかるがじんじゃ伊賀留我神社祭神天大日婁売命(天照大神)あまのおおひるめのみことあまてらすおおみかみ倭姫命・少彦名命・大山祇命やまとひめのみこと すくなひこなのみことおおやまずみのみこと延喜式神名帖(千三百年程昔)に記載されている、富田地方では最も古く由緒ある神社である。神鳳には「延喜式朝明郡伊賀留我神社、神域三丁また斎宮大明神とも称す」と書かれている。また、和名抄には「伊賀留我神社、天大日妻売命あまのおおひるめのみこと、が客、是れなり。この社の側に流れる川を志川(現在の十四川)という」と記している。現在、館は南北に分かれ、双方に伊賀留我神社が存在している。桑名藩の記録によると、「寛永の頃(一六二四~一六四三)に分社した」とある。神鳳にしても、和名抄にしても、伊賀留我神社のことを斎宮と記している。斎宮は、伊勢神宮の斎宮であり、倭姫命を祭神としている事から、伊勢神宮との深い関わりを感じさせる。また、鶏の地名は大和線療の地との関わりも伺う事ができる。ここは聖徳太子の御料地であったという言い伝えもある。伊賀留我神社には「いのこ神事」の名残りの大太鼓、大金おおがねが今に伝えられている。
道路脇に巨大な石標が建っています正三位伯爵 冷泉 為紀(れいぜい ためもと)の書によるとのこと初代平安神宮宮司として時代祭の執行に関与したほか、明治31年(1898年)から死去まで神宮大宮司を務めたお方こんな凄い人が何故ここに?御朱印もあります!
地点のデータごと消えていたので再登録しました。最近この辺りの神社の地点データが何個か消えているのですが、原因不明です。
| 名前 |
伊賀留我神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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伊賀留我神社(いかるがじんじゃ)。三重県四日市市茂福。式内社(小)論社、旧郷社。主祭神:大日孁貴命 《配》大山祇命資料によると、延喜式神名帳』、伊勢国朝明郡の一社伊賀留我神社と考えられる。鵤村は『神鳳鈔』にいう「鵤ノ御厨房三丁目の地であり、当社名も古くは「斎宮大明神」とも呼ばれ、神屋との因縁も深く祭神が奉斎されてきた。御座清直の『神社検禄』には当社所蔵の古祭文(現不詳)に貞観三年(861)、六人部津根呂が当社旧殿を新修したとすることを、『三代実録』、同年六月二〇日条の「伊勢国朝明郡六人部津根磨妻泰美豆岐一産三男賜稲三百束充乳母一人三ケ年間給以公粮」の恩賜を感謝してのこととする。鵤村は近世寛永年中南北二村に分れ、北は桑名藩の茂福村に、南は忍藩の羽津村に属することとなった。その後両村に祀られていた伊賀留我神社は安永八年(1799)本社末社の争論が起こったが、両社の資料がそろっていない今、これを論ずることは控えたい。とあります。