新島襄生誕地、学士会館の碑。
新島襄生誕地の特徴
新島襄生誕地は学士会館のすぐ近くにあります。
幕末の坂本龍馬の従兄弟としても知られています。
京都同志社の創立者である新島襄が生まれた地です。
たまたまミニストップでソフトクリームを買ったので、ベンチを借りにきたらこんな碑が。京都同志社の創立者とのことで、てっきり京都出身かと思いきや上州安中藩の江戸藩邸で誕生したとのこと。(いわゆるお父さんの出向先で生誕ということか)この近くに博報堂の旧いビルもあり興味深いです。
学士会館の改装工事の一環か、お引越しをしています。移転先は東にある公園です。詳しくは画像をご覧ください。藩邸内での移動のようです。公園は新島譲の幼少期の名前に由来しており、建物の端にあるよりはここの方がしっくり来ます。
「神田錦町:新島襄生誕地」2024年5月に立ち寄りました。ちょうど2023年8月に函館で新島襄海外渡航の地碑を見たところだったので感慨深いものがありました。ここはその新島襄が生まれた場所。新島氏は日本の近代化に尽力した人で、同志社の創立者でもあります。 幕末の1864(元治元)年、激動する日本の将来を憂い、国禁を犯して脱国し、約10年間にわたってアメリカ、ヨーロッパで学び、キリスト教の洗礼を受けて帰国しました。そして、国内外の多くの人々の協力を得て、1875(明治8)年11月29日、京都の地に同志社大学の前身となる同志社英学校を設立しました。
新島先生生誕の地らしい。
学士会館に碑がありました。
幕末、坂本龍馬の従兄弟らとアメリカに密航した破天荒で、どちらかというと明治時代に活躍する。「襄」は英語の「Joe」から来ているそうだ。幼名は「七五三太」。この様に書いて「シメタ」と読ませるという。これに関して、Wikipediaには、『この名前は、祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある』とあった。しかしながら、近隣の錦三・七五三太公園の説明板には、『彼の誕生日は旧暦の1月14日で、本人の伝えるところによれば、その日はしめ飾りを外す日だったから「七五三太」と名付けられたのは疑いもなく、また当時新島家には四人の女児が続いた後の待望の男児だったため、祖父が「しめた!」と喜んだところから、「七五三太」と命名されたという話が人々に広まったと説明しています』とあり,これを否定している様である。
京都同志社の創立者である新島襄が生まれた場所です。
学士会館の角近くに説明板と碑があります。
同志社の創立者ですね。
| 名前 |
新島襄生誕地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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同志社大学の創設者・新島襄先生は天保14(1843)年、上野國安中藩主板倉家の江戸藩邸にて誕生。