人見氏一族の歴史を体感。
人見館跡の特徴
教育委員会の案内看板が設置されている史跡です。
二重堀切が部分的に残っている貴重な遺構です。
深谷市の地名に関する興味深い歴史を感じられます。
以前深谷市の案内表示等では人見氏館跡と紹介されていた気がしないでもないですが、現在は地名のみの人見館跡と教育委員会の案内看板にあります。館跡の西側の区画にだいぶ埋もれた状態ですが空堀と土塁が部分的に見られます。周囲の小字に吹張や馬場、政所等館に関連した地名が残っています。現在見られる遺構は人見氏一族の時代のものでなく、深谷上杉の時代に整備されたものらしいです。ちなみに北側にある小山(ほぼ丘です。別の意味で有名スポットです。)と北東方向の仙元山の方が城郭施設としての十分な要素がありそうですが特に史跡としての伝承や記録が無いそうです。(仙元山の麓にある総合体育館のビッグタートルを建設する際に堀割状の何らかの遺跡は見つかったらしいですが…。)専用の駐車場は無いので車で訪れる際は史跡の東1㎞程にある仙元山公園の駐車場を利用しましょう。
二重堀切が部分的ですがよく残っています。
| 名前 |
人見館跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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この場所は、人見氏一族代々の館(やかた)があったところです。土塁や堀の跡も残っています。営繕された時代は後世のものだとしても、人見氏の由緒は明らかです。ここから南に500Mほど行ったところにある「一乗寺(いちじょうじ)」は、人見氏の代々の菩提寺(ぼだいじ)です。さて、それはともかくとして、ひとつ奇妙なことは、東京の府中市にも人見氏(人見四郎)の屋敷跡と墓があることです。人見 光行(ひとみ みつゆき、1261年~1333年、通称「人見四郎(ひとみしろう)」)は、鎌倉時代末期の武士で、武蔵榛沢郡(はんざわぐん)人見郷(現在の埼玉県深谷市人見(つまりココ))を本拠地とし、鎌倉幕府14代執権北条高時に仕えた御家人だったそうです。「元弘(こうげん)の乱」では、幕府軍に従軍しました。「元弘の乱」とは、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱のことで、関東だと 東京 府中の「分倍河原(ぶばいがわら)の戦い」が有名です。人見四郎は、元弘3(1333)年2月2日に、楠木正成(くすのきまさしげ)のたてこもる赤坂城攻城戦 (現在の大阪府南部の「千早赤阪村(ちはやあかさかむら)」)で、討ち死にを遂げたとのことです。享年73歳でした。ところで、平成2年(1990年)に、府中市教育委員会が、彼の館の跡と伝えられる東京 府中市の浅間山公園(せんげんやまこうえん)の南西部の場所に、御影石と花崗岩でつくった人見氏(人見四郎)の墓標を建ててしまったのです。浅間山公園とは、都立の公園で、標高約80Mの浅間山(せんげんやま)を公園にしたものです。浅間山は、ほぼ平坦な武蔵野の台地にあってはきわめて特異な地形で、ここだけ孤立してボコっと突出した山です。衛星写真で見るとここだけが際立って盛り上がっていることがわかります。浅間山は、別名「人見(ひとみ)山」とも言われており、この付近の地域が、かつて人見村と呼ばれていたことに由来します。古道である「人見街道(現 都道110号線)」沿いにあって、歴史の書や絵にも、よくこの付近のことが記されています。平安時代末期から中世にかけて「人見郷」と呼ばれ、武士団との関わりを持ち、江戸時代には 人見街道沿いの集落として栄えました。その後、昭和の合併で府中市の一部となり、現在の府中市若松町付近(浅間山の南側)がその集落だったところです。一説によると、元は人見氏の名前に由来した村や山の名前だという説もありますが、人見四郎が戦死した大阪 南部の場所や、人見氏累代の館跡(つまりココ)及び菩提寺のある埼玉県深谷市人見とは、大幅に離れたところにあり、東京の府中市に人見氏(人見四郎)の館があったというのは、かなり疑義があります。別の説だと、かつて ここの浅間山が「人見山」と呼ばれ、その近辺が「人見ヶ原」と呼ばれていた事などから、「人見氏とは無関係であり、孤立した丘で眺望がよく利き、周辺を監視(人見)したり、遠くからもよく見える丘として使われていたために「人見山」と名付けられた」という説もあり、人見四郎が、戦死した場所や、人見氏代々の屋敷跡、墓がある埼玉県深谷市でもない事情等からも、疑問が残されたまんまです。府中市教育委員会に、「なぜ浅間山に人見氏の墓を建てたのか?」と問い合わせた人によると、府中市教育委員会は、「(当時のことは)わからない。」と答えたそうです。