富士川の戦いの歴史を感じる。
平家越碑・東海道道標(源平合戦)の特徴
平家越碑は源平合戦の歴史的な要所です。
富士川の戦いで平家軍が陣を敷いた地です。
鎌倉時代の戦の背景が感じられるスポットです。
旧東海道踏破チャレンジその昔、源氏と平家が戦った源平合戦の富士川の戦いの際に、この周辺に平家が陣を敷いたそうだが、富士川の戦いは富士川を挟んで両者が睨み合ったのでは?どうて、平家の陣が富士川の東側にあるのか?よく分からん。
左富士、馬頭観音、平家越。昔を偲ぶことのできる良い場所です。立派な石碑を作ってくれた皆さんにも感謝です。(^o^)
▼あの有名な「富士川の戦い」で平維盛を総大将に立てた平家軍が陣を敷いたところとされます。▼ところが、この石碑の建っている場所は現在の富士川から6.2kmも東側にあります。頼朝が陣を敷いた黄瀬川なぞもう沼津の方が近いです。富士川から24km以上も東側です。▼私の勝手なイメージでは富士川を挟んで、西側に平家、東側に甲斐の武田信義と頼朝と思い込んでいましたが、違うのですね。▼「お互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」と武田信義が、平維盛に挑戦状を送りつけたと『山槐記』『玉葉』『吉記』にはあります。▼浮島ヶ原とは、当時から富士川より東側です。▼つまりこの「平家越」の陣は、富士川の流れが変化したから富士川の東側にあるのではなく、最初から平家は富士川を越えて、東側の浮島ヶ原の西側に陣を敷いたのですかね。▼それであれば、頼朝も黄瀬川とかなり東に陣を敷いた理由が理解できます。また六騎さんが書いてくださったように、この挑戦状から武田軍は富士川沿いを南下して駿河に出たのではなく、甲斐路という沼津川へ出る道を進軍してきたものと思われます。▼ということは、水鳥は平家軍の背後で聞こえた?武田軍の一部は平家軍の裏へ廻り、水鳥を飛び立たせた?▼色々と妄想は膨らみますが、面白いですね。
| 名前 |
平家越碑・東海道道標(源平合戦) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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鎌倉時代の少し前に平家と源氏が戦ったと言われる場所ですが、平家の軍勢は闇夜に鳥が羽ばたき飛び立つ音を源氏の夜襲と勘違いして退散し、源氏は戦わずして勝利したと言われる場所です。その頃は富士川は大雨のたびに氾濫して河原は大きく今より東にありこの辺りまで支流があったと言われています。