今悲し駐車場の雄図、立つ看板。
| 名前 |
設楽原古戦場いろはかるた「京」 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
〒441-1306 愛知県新城市川路寺ノ前5 勝楽寺 第2駐車場(ドクターヘリ発着場 |
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京めざす 武田の雄図(ゆうと) 今悲し駐車場の一角に看板だけが立っています。この近辺は勝楽寺前激戦地と呼ばれ、山県昌景を主力とする武田左翼軍と徳川軍が激しい戦闘を繰り広げたと言われています。山県昌景は信玄公からの信任厚く、信玄公死去の際は「瀬田(\u003d京)に武田の旗を立てよ」との遺言を受け取ったと「甲陽軍鑑」にあります。長篠合戦での武田軍の布陣は史料により異なりますが、山県昌景は徳川軍に相対する左翼に布陣して、武田軍の主力を担ったそうです。それを表すように武田軍の1番隊は山県昌景で、左翼から戦が始まったと「信長公記」にはあります。徳川氏周辺で成立した「三河物語」や「松平記」などでは、徳川軍は大久保忠世・忠佐兄弟を中心に柵から足軽兵を出して戦ったとあります。武田軍がかかってくると引きつけながら柵の中に退き、柵内の鉄砲隊が武田軍に撃ちかける。武田軍が退くと足軽兵が柵の外に出て武田軍にかかっていくという押し引きで武田軍を翻弄し、山県昌景は徳川軍の鉄砲に撃たれて討死したとあります。「甲陽軍鑑」では、山県昌景隊は徳川軍を柵内に押し込めるも再び出撃してくるため、柵のない南側まで回り込んで柵内に入ろうとするも撃退されたとあります。山県昌景の最期については歴史学者でも見解が分かれているようで、上記のように徳川軍との戦闘で討死したとする説や、戦場からの撤退の途中で討死したとする説があります。