鳥取城兵糧攻めの歴史を体感。
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| 名前 |
吉川経家公頌碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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織田信長による中国地方制覇の命を受けた豊臣秀吉は2年位前から鳥取城下の米の買い占め、その周辺からの米の流通ルートを遮断する等、鳥取城兵糧攻めを敢行しました。時の鳥取城主は不在、この難局を切り抜けようと鳥取城家臣からの要請を受け、中国地方の覇者 毛利家から 命を受けて派遣されたのが石見国(現在の島根県益田市)福光城主の子息 吉川経家でした。白羽の矢を受け鳥取城へ入城しましたが形勢は厳しくありました。入城し知略を尽くし奮戦するも約200日経過した天正9年10月25日、遂に城落の日となりました。毛利勢の援軍はこの時、総大将吉川元春が率いて伯耆の国(現在の湯梨浜町)橋津の馬の山付近まで進軍していましたが間に合いませんでした。(秀吉軍は鳥取城を攻め落とした後、馬の山にて吉川元春軍と対峙)吉川経家は自身の命をひきかえに敗戦の責めを負い、配下家臣と領民の助命を願い自刃しました。享年35際。(合掌)自刃の刻(とき)、七つ(寅)から明六つ(卯)までの時間は午前4時から日の出をはさんで午前6時までの時間でした。霜降の時期のこの時間帯はさぞや体に堪えたことでしょう。辞世、主家の毛利家へ、福光城主へそして自身の妻子へ遺言の書状を託しています。現在は山口県岩国市に吉川家の菩提寺、顕彰碑が御霊を御守りです。