鹿鳴館跡で感じる歴史の息吹。
鹿鳴館跡の碑の特徴
かつて社交の中心であった鹿鳴館時代を偲ぶことができるスポットです。
石碑には鹿鳴館の重要な歴史が刻まれており、訪れる価値があります。
鹿鳴館跡の碑は、明治16年に建てられた歴史的な場所です。
ご先祖様達が賢明に努力してくれたお陰で、安全な先進国に成った。周囲の国は我々日本人の考えとは違うから、国土を周囲の国に取られないようにしないと死後ご先祖様達に顔向け出来ない。すでに明治時代には隣国と付き合うなと言っていた先見の明が有る人がいたから発展してきた。隣国にズブズブの議員は恥ずかしく無いのか。2023年春に〇カ月の帝国ホテル東京に住んだが、その時既に解体が始まっていた。
石碑には、『鹿鳴館跡ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であったその中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった千代田区』と書かれている。
壁に文字盤があるだけだが、ここに何がかつてあったのかわかるのはありがたい。ただ、あまりにも目立たない所にあるから、年中この辺りを通っていても、存在に気づいていない人もいるだろう。明治の華やかな社交場、誰もが知っている鹿鳴館はここにあったのだ。
グーグルマップに「鹿鳴館跡の碑」とありますように、鹿鳴館を偲ぶものは石碑しかありません。その碑には「ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であって、その黒門は戦前まで国宝であった。この中に明治十六年鹿鳴館が建てられ、いわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった。千代田区」との銘文があるのみです。他のクチコミを拝見しますと、ガッカリ感や物足りなさ感を吐露されていますが、ごもっともな事でお気持ちは良く分かります。ご参考までにご紹介させていただきますと、鹿鳴館の建物は、縮小された模型になりますけど江戸東京博物館でご覧になることができます。この鹿鳴館の設計を手がけたのは、イギリス人建築家のジョサイア・コンドルです。当時、東京大学工学部の前身となる工部大学で教鞭を取っていた彼は数々の日本人建築家を育てました。東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾もその1人です。コンドルは教鞭を取るかたわら、日本文化にも傾倒するようになり、明治14年(1881)に絵師の河鍋暁斎に入門し、鹿鳴館が開館する年(1883)には暁斎から暁英の号を授かっています。教職を退官した後も日本に留まり、明治26年(1893)には花柳流の舞踊家(前波くめ)と結婚し、大正9年(1920)に脳軟化症により麻布の私邸で逝去(67歳)した生涯です。奇しくも、妻が11日前に亡くなっており、妻と共に文京区の護国寺に埋葬されているのです。生涯の間に手がけた建築物は数多くありますけど、ニコライ堂、三菱一号館、旧古河邸、旧岩崎邸、などは馴染みある建物になるでしょうか。尚、鹿鳴館を取り壊しの際に取外された階段と壁紙は、東京大学工学部建築学科に保存されていますし、シャンデリアは江東区の平井聖天(燈明寺)に売却されたようです。ご興味をお持ちの方は、先に申し上げた建物や施設へお出掛けください。
今は壁に碑のみあるだけです。帝国ホテルの隣のビルの塀の所にひっそりとあるので通るだけでは分かりづらいです。鹿鳴館は明治16年(1883)11月28日完成した建物で元々は江戸時代に薩摩藩邸があったところです。そこに通商条約を円滑に進めるため建てられたのが鹿鳴館でジョサイア・コンドルが設計し設計で紳士淑女の舞踏会が行われました。鹿鳴館時代は明治20年(1887)終わりますが、明治27年(1894)払い下げられ、昭和8年(1933)華族会館になり、関東大震災で損傷、昭和15年(1945)取り壊しになりました。
鹿鳴館はイギリス人ジョサイア・コンドルによって設計されたレンガ造り二階建ての洋風建築で、明治16年(1883)年落成しました。宴会場だけでなく様式ホテルも併設されていたようですが、当時のヨーロッパの人たちにはあまり評判がよくなかったようです。明治27年(1894)華族会館に払い下げられ、1927(昭和2)年には 現在の大和生命保険に売却され, 1940(昭和15)年に解体されました。現在は石碑が一枚残されているのみです。
| 名前 |
鹿鳴館跡の碑 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
「鹿鳴館」が社交の中心であった時期を「鹿鳴館時代」と称された「鹿鳴館」があった場所がここになります。お隣の帝国ホテルと日比谷U-1ビルの敷地の境目に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれていましたが、今は、再開発のため碑は頃撤去されています。評判の悪かった建物だったためか、保存の声が上がることもなく、解体されてしまいました。とは云え、この場所で、鹿鳴館の花と呼ばれた大山捨松が主催した日本初のチャリティーが行われ、それが看護婦教育の始まりにもなっています。そう思って、通りかかった工事のフェンスの壁には、生き生きとした女性の姿が描かれていて、少し心が和みました。碑は残らずとも、残るものはあるのだなぁと思いました。