細川忠興陣跡で歴史探訪。
細川忠興陣跡の特徴
忠興が率いた細川隊の激闘を感じられる陣跡です。
樹齢800年の大杉が優雅に存在する小さな公園です。
関ケ原ウォーキングのスタンプポイントに位置しています。
石田憎し故にこちらで2024年5月上旬、レンタサイクルでの関ヶ原探訪の際に寄りました。説明板を読むと、細川忠興がここに布陣したことに納得できました。説明板には————————————————————細川忠興は父・幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人として知られ、利休七哲の一人にも名を連ねている。忠興は豊臣恩顧の有力武将であったが、石田三成とは仲が悪かったと言われ、始めから徳川家康に与した。慶長5(1600)年7月、家康が会津征伐のため大坂を留守にした。三成はこれを好機と見て挙兵し、自らの陣営に諸将を引き込むため、大坂に居るその妻子らを人質に取ろうとした。しかし、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶して命を絶つ。さらに、父が守る田辺城(京都府舞鶴市)は西軍によって包囲されてしまい、三成への憎悪の念は益々深まったとされる。戦いの当日は約5千の兵を率い、東山道(中山道)から黒田長政・行串量らが布陣する岡山烽火場の麓、ここ相川の南付近に布陣した。戦いが始まると、黒田・竹中隊らとともに笹尾山の石田隊を果敢に攻め、最終的に壊滅させた。細川隊は、首級130余を挙げたという。忠興は多芸多才で、甲冑の考案でも知られる。当日は「越中頭形党」を被っていたとされ、その姿は関ケ原合戦図屏風に描かれている。戦後はその功により、豊前国(福岡県東部・大分県北部)に大封を得た。————————————————————とあり徳川を勝たせるというより、石田を潰す意識が強かったと思いました。
細川忠興陣跡は、住宅街の一角、貯水池脇にある。山の中にある趣のある他の陣跡に比べると、陣があった感じがしない…
忠興が、関ヶ原の戦いの当日に被っていたとされる「越中頭形兜」はありませんが、「パンダ」がいますよ。
細川藤孝の嫡男、細川忠興の陣跡です。明智光秀の娘で細川ガラシャの旦那さんとしても有名ですね。公園の敷地内にあり説明の看板と石碑のみあります。
やや窪地になった陣跡です。敵本陣の笹尾山から見下ろされる位置関係になります。
細川忠興陣跡会津征伐のため大坂を留守にした際に三成が妻子らを人質に取ろうとした際、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶して命を絶ちました。父幽斎が守る田辺城は西軍によって包囲され,三成憎しの忠興は相川の南付近に布陣し黒田・竹中隊とともに、笹尾山の石田隊を主に攻めました。戦後は豊前国中津33万石に国替のうえ加増しました。
忠興公は豊臣恩顧の大名ではありますが、石田三成との確執のため徳川家康率いる東軍に味方する。関ヶ原では黒田長政・竹中重門らとともに笹尾山の石田三成を攻め壊滅させる。陣跡は小さな公園になっており、石碑と案内板が建てられてます。駐車場やトイレはありません。また近くの岡山狼煙場には黒田長政・竹中重門の陣跡があり、完全に笹尾山の三成様を攻める為の布陣がなってます。恐るべし家康公😅
石碑その物は良かったですが…直ぐ左隣の遊具のある小さな遊び場が目に入り、興醒めでした。
小さな公園になっています。
| 名前 |
細川忠興陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0584-43-1600 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原811−104 |
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
行く時々に陣跡を写真撮影して関ヶ原古戦記念館に提示すると該当する陣跡だと陣跡印が購入できるけど、こちらは近いので該当なかった。ガラシャ命だから石田治部に相当キレてそうで気合い十分だったのかなと思いを馳せた。