細川忠興の激闘の地。
細川忠興陣跡の特徴
忠興が率いた細川隊の激闘を感じられる陣跡です。
樹齢800年の大杉が優雅に存在する小さな公園です。
関ケ原ウォーキングのスタンプポイントに位置しています。
細川 忠興(ほそかわ ただおき)長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。正室は「明智光秀」の娘の玉子(通称細川ガラシャ)。細川忠興は関ヶ原の戦いで「徳川家康」の東軍に属し、「石田三成」の軍を相手に主戦場(岐阜県関ケ原町)で猛戦して130余の首級を挙げるなど大戦功を挙げました。特に妻・細川ガラシャの悲劇的な自死を経て、その仇を討つべく激しく奮戦したことで知られています。●怒りの出陣: 大阪の細川屋敷に人質を要求した石田三成に、妻・ガラシャが拒否して自害したため、忠興は三成を怨み、鬼神の如く奮闘した。戦いの当日は約5千の兵を率い、岡山烽火場の麓、相川の南付近に布陣し、「黒田長政」「竹中重門」隊とともに、笹尾山の石田三成の右翼を攻撃し、壊滅させ武勲を挙げた。室町幕府15代将軍「足利義昭」追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また幽斎の名で知られる父、細川藤孝と同じく、教養人・茶人としては細川三斎(ほそかわ さんさい)の名で知られ、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。
関ヶ原の町はずれ、小さな公園がひっそりと佇んでいます。芝生の広がる一角に、石碑と案内板が立ち、訪れる人もまばらです。ここが、戦国の名将・細川忠興が関ヶ原の戦いで布陣した場所と伝えられています。忠興は、父・細川幽斎の才を受け継ぎ、武勇と教養を兼ね備えた人物でした。千利休の高弟「利休七哲」の一人として茶の湯に通じ、和歌や書にも秀でていた一方で、戦場では冷静かつ果断な指揮をふるいました。関ヶ原では東軍に属し、黒田長政・竹中重門とともに石田三成隊を攻め、戦局を大きく動かしたとされています。しかし、この陣跡に立つと、そうした戦功よりも、忠興の内面にある静かな激しさが胸に迫ってきます。戦の直前、妻・細川ガラシャが西軍の人質となることを拒み、自ら命を絶ちました。忠興はその死を深く悼みながらも、怒りを胸にこの地に立ち、戦いに臨んだのです。現在の陣跡には、かつての喧騒を思わせるものは何も残っていません。風に揺れる草の音と、遠くの車の走る音が、ただ静かに響いています。戦場だったこの場所は、いまや町の暮らしに寄り添う、小さな緑地となりました。何も語らない石碑の前に立つと、忠興という人物の複雑さ──武将としての誇り、文化人としての美意識、そして一人の夫としての哀しみ──が、静けさの中にそっと浮かび上がってくるように感じられます。
行く時々に陣跡を写真撮影して関ヶ原古戦記念館に提示すると該当する陣跡だと陣跡印が購入できるけど、こちらは近いので該当なかった。ガラシャ命だから石田治部に相当キレてそうで気合い十分だったのかなと思いを馳せた。
石田憎し故にこちらで2024年5月上旬、レンタサイクルでの関ヶ原探訪の際に寄りました。説明板を読むと、細川忠興がここに布陣したことに納得できました。説明板には————————————————————細川忠興は父・幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人として知られ、利休七哲の一人にも名を連ねている。忠興は豊臣恩顧の有力武将であったが、石田三成とは仲が悪かったと言われ、始めから徳川家康に与した。慶長5(1600)年7月、家康が会津征伐のため大坂を留守にした。三成はこれを好機と見て挙兵し、自らの陣営に諸将を引き込むため、大坂に居るその妻子らを人質に取ろうとした。しかし、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶して命を絶つ。さらに、父が守る田辺城(京都府舞鶴市)は西軍によって包囲されてしまい、三成への憎悪の念は益々深まったとされる。戦いの当日は約5千の兵を率い、東山道(中山道)から黒田長政・行串量らが布陣する岡山烽火場の麓、ここ相川の南付近に布陣した。戦いが始まると、黒田・竹中隊らとともに笹尾山の石田隊を果敢に攻め、最終的に壊滅させた。細川隊は、首級130余を挙げたという。忠興は多芸多才で、甲冑の考案でも知られる。当日は「越中頭形党」を被っていたとされ、その姿は関ケ原合戦図屏風に描かれている。戦後はその功により、豊前国(福岡県東部・大分県北部)に大封を得た。————————————————————とあり徳川を勝たせるというより、石田を潰す意識が強かったと思いました。
細川忠興陣跡は、住宅街の一角、貯水池脇にある。山の中にある趣のある他の陣跡に比べると、陣があった感じがしない…
忠興が、関ヶ原の戦いの当日に被っていたとされる「越中頭形兜」はありませんが、「パンダ」がいますよ。
細川藤孝の嫡男、細川忠興の陣跡です。明智光秀の娘で細川ガラシャの旦那さんとしても有名ですね。公園の敷地内にあり説明の看板と石碑のみあります。
やや窪地になった陣跡です。敵本陣の笹尾山から見下ろされる位置関係になります。
細川忠興陣跡会津征伐のため大坂を留守にした際に三成が妻子らを人質に取ろうとした際、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶して命を絶ちました。父幽斎が守る田辺城は西軍によって包囲され,三成憎しの忠興は相川の南付近に布陣し黒田・竹中隊とともに、笹尾山の石田隊を主に攻めました。戦後は豊前国中津33万石に国替のうえ加増しました。
| 名前 |
細川忠興陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0584-43-1600 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原811−104 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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石田三成隊と激しい火花を散らした細川忠興の陣跡です。忠興の妻ガラシャは三成が西軍参加強要の人質にしようとした際に、拒んで死を選ぶ結果となりました。忠興の「三成憎し」の気持ちは相当なものであったと想像がつきます。住宅街の小さな公園に位置しています。