本多忠勝の陣跡、ひっそりと佇む。
本多忠勝陣跡の特徴
徳川四天王に名を連ねる本多忠勝の陣跡が住宅街に隠れています。
住宅街の裏手にひっそりと佇む歴史的なスポットです。
一見分かりにくい場所ですが、戦国時代の雰囲気を感じられます。
住宅街の中の分かりにくい場所に、そーっとたたずむ陣跡です。とりあえず、案内の矢印は見つけたので、たどり着くことはできました。徳川四天王の本多忠勝の陣跡としては、もっと目立つようにしっかりとした造りにして欲しいですね!車を止める場所が無いので困りました。
本田忠勝の陣跡。Googlemapと案内板を頼りにきましたが、民家の脇にあることに最初は気付かず前の道を通り過ぎました。
民家の間に2024年5月上旬、関ヶ原探訪の際に寄りました。他の方のクチコミにあるようにわかりにくい場所にあります。自身は駅から歩きで都度スマホのGoogle Mapsで確認しながら行きました。設置されている説明板には———————————————————-本多忠勝は武勇の誉れ高く、徳川四天王の一人に名を連ねる。関ヶ原の戦いでは、東軍の軍監として約5百の兵を率いてこの辺りに布陣。伊勢街道を抑え、南宮山(垂井町)方面の軍隊を牽制するとともに、福島正則ら豊臣恩顧の武将の諸隊と、桃配山に布陣する徳川家康本隊の間にあって戦況を睨んでいた。南宮山の西軍諸隊は動かないと見切ると、徳川本隊の前進と合わせ自らも戦闘に参加する。午後には松平忠吉・井伊直政らとともに敵中突破を図る島津義弘を追撃している。忠勝は「鹿角脇立兜」を被り、天下三名槍「蜻蛉初」を手に、肩には葬った敵を弔うための大数珠を下げ、その生涯57度の戦いで傷ひとつ負わなかったという。———————————————————-とありまさに戦国武将の振る舞いに感心しました。
地元民の住宅の間にあり、路駐もできずに車を止める場所も無い。信号の反対側の病院や企業の駐車場らしき広い更地があり、そこにハザード出して止めて、サクッと見て、サクッと逃げるしかない。
個人宅の裏庭に入っていくと、あります…ホントに入っていいの?とビクビクしながら撮影しました…
徳川家康の家臣でその武勇で鳴らした本多忠勝公が関ヶ原合戦の折に陣を置いたとされる場所。本多家紋(本の字)の幟に石標, 説明板があるのだが、民家数軒に囲まれるようにひっそりとあって目立たず、近くの道が細くて曲がっているのもあってすこし分かりにくい。民家の庭なのか公共の場所なのか分かりにくいのですこし居心地悪さを感じた。長居をするほどいろいろなものがあるわけでもないので、見るものを見たら早々に退散するのがいいかもしれない。あと、道脇に案内の標示があって矢印と距離(50m, 20m)とが書かれているのだが、標示を信ずるならば20歩程度の距離が30mとされているので、距離はあまりあてにならないかもしれない。
徳川十六神将、徳川四天王に名を連ね、誰もが知る戦国武将。名槍「蜻蛉切」を操り、生涯57度の戦いでかすり傷すら負わなかったとされる強者。宿敵武田信玄家臣から「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の兜に本多平八」と言わしめた等々の、現在に至るまで数々の逸話が語り継がれています。名だたる武将オールスターが参戦布陣したこの関ヶ原の地に立つと、数々の逸話、エピソードが強烈に現実味を帯びて来るのを実感しました。細い路地を入った住宅に隣接しているためマナーは守りましょう。
ここ岐阜関ヶ原は西軍の地だからか、東軍の本多忠勝の陣跡地が民家の間で、案内の人を頼んで良かった。自分たちだけでは見つけられなかったと思います。皆さんも東軍の陣跡行く時は、是非案内の人を頼んでくださいね。話しながら、巡ってくれるので良かったです。
そういえば関ヶ原での本多忠勝の活躍はあんまり聞かんよなー小職が知らんだけかもやけど戦国時代が終わりに近づいてるのを肌で感じて忠勝公は一抹の寂しさをおぼえて精彩を欠いてたんじゃないかなそんな気がします。
| 名前 |
本多忠勝陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0584-43-1600 |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| HP |
https://www.sekigahara1600.com/spot/hondatadakatsujinato.html |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原3441−67 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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関ヶ原の戦いにおける本多忠勝の陣跡は、岐阜県関ケ原町の十九女池(つづらがいけ)の西側に静かに佇んでいる。現在は住宅地の一角に石碑が立つのみだが、かつてこの地に、徳川家康の信任厚い武将・本多忠勝が陣を構えた。忠勝は、徳川四天王の一角を担った猛将でありながら、無闇に血を好まず、理と胆力を兼ね備えた人物として知られる。生涯五十七度の戦に出陣しながら、一度も傷を負わなかったという逸話は、彼の戦巧者ぶりと冷静沈着な判断力を物語っている。愛槍「蜻蛉切(とんぼきり)」を手に、戦場では鬼神の如き働きを見せたが、その内面には義を重んじる温情もあった。関ヶ原では、東軍の軍監として松平忠吉・井伊直政らとともに布陣。戦況を見極めながら、島津義弘の中央突破に対して果敢に追撃をかけた。戦後、西軍に与した真田昌幸・信繁親子の助命を家康に嘆願し、拒まれると「それならば、拙者が討ち果たす」とまで言い放ったという。忠義と情の人でありながら、時に主君にすら臆せず意見を述べる剛直さが、彼の真骨頂であった。そこに立つ石碑は、忠勝の静かなる気迫と、戦国の終焉を見届けた男の矜持を、今もなお語りかけてくるようだ。