歴史感じる四ツ橋で、時を超えた旅を。
四ツ橋跡の特徴
四つ橋の歴史は江戸時代まで遡り、重要な交通路でした。
正確な四ツ橋の位置は、西横堀川と長堀川の交差地点にあります。
昔は四つの橋が架かっていたことから名付けられた地名です。
四ツ橋交差点より若干東寄りの阪神高速と長堀通の南半分辺りが四ツ橋の正確な位置です。
長堀通りの中央分離帯の緑地にあります。
今となっては地名と駅名としか認識はありませんがここに四つも橋がかけられていたのですね。
歴史を感じる。
〔四ツ橋〕はかつて西横堀川、長堀川に方形に架かる橋だったという。川の埋め立てにより、現在では名前だけが残っている。〔四ツ橋跡〕に2基の句碑が建っている。上島鬼貫句碑 後の月入りて貌よし星の空 鬼貫小西来山句碑 涼しさに四つ橋を四つわたりけりここから少し、西に行ったところには四つ橋の跡という碑が建っていて、〔四つ橋〕の由来が記されており、この2つの句も記載されている。
「すずしさに 四つ橋をよつ わたりけり」という句が思い浮かぶ。四つの橋にはそれぞれ名前があったが、大阪人にはそんな面倒くさいことは大嫌い。四つあるから四ツ橋でいいではないかという単純明快な考えである。もう一本の句碑には「後の月 入て貌よし 星の空」とある。ここでしばし、十字に交差した川に架かった四つの橋を偲ぶのもまた感じよし。
昔はこのように、十字に流れる川に4つの橋が架かっていたことからこの地名が付いたそうです。
大阪は昔から橋と川の街で、八百八橋と言われた位です。昭和45年位から以降に生まれたかたは、戦後25年もなり、昔の人と考えに差があるようで、大阪市内の主要な川を埋立、地下駐車場にしたり、大阪は不思議と地下街が多く、中心部に無かったので長堀川を埋立、地下駐車場にしたり、長堀地下街にしたり、又その下を地下鉄を走らせたり、西横堀川を埋立、高速道路にしたり川を上手く利用してますね。長堀と西横堀川に4つの橋が掛かって居たので四ツ橋といいますが、四ツ橋と北東角にプラネタリウムのある電気科学館が有りましたが、この旧電気科学館はあの戦災の爆撃にも助かりましたね。今は土佐堀に移り立派になり、この四ツ橋も土佐堀もプラネタリウムを観に何回も行きました。☺️☺️☺️
昔懐かしい所ですね。東西にあった長堀を埋め立て地下駐車場と長堀地下街になりましたね。又今はその下を地下鉄長堀鶴見線が走っており、川は別の意味で役割りを果たしてます。南北に流れてた西横堀川は、埋め立てた跡地は阪神高速道路が走り、昔の面影はありませんねぇ。西横堀川の畔にあった戦前の大阪市電気科学館は戦災で焼け残り、長い間ここにありましたが、移転しました。立ち退いた跡地を売って堂島に移転しました❗️旧科学館の四ツ橋筋の前の富士銀行(今のみずほ銀行)は、新しく建て変えてまだあります❗️今四ツ橋筋は南から北への一方通行になってます。川の街も高速道路を走らす所がなく苦肉の作で川を埋め立て走らしてますねぇ。仕方ない事ですね‼️✌️☺️
| 名前 |
四ツ橋跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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江戸時代、荷物を運ぶには、大八車で陸上を運ぶよりは、運河を船で運ぶ方が能率が良かった。なので、運河を開削して、川と名前を付けていた。慶長5年(1600年)に開削された西横堀川と玄和8年(1622年)に開削された長堀川が交差する場所のことを、『四ツ橋』と呼んでいた。北側の上繋橋、東側の炭屋橋、西側の吉野屋橋、南側の下繋橋の四つの橋が井桁状に架橋されていたのである。橋が井桁になっていただけでは、有名になったりはしないと考えるのが常識である。落語でよく出てくるのが、「新町の芸者さんを呼んで・・・」というくだりがある。先代の桂文枝(桂三枝が襲名した分枝の師匠)がやると、実に色っぽかったのを思い出しませんかねえ?この新町ってどこなんでしょうね。新町遊郭で賑わっていた東順慶町筋や心斎橋筋が隣接していたからである。浪花の名所、俳句に詠まれたり、納涼やお月見の場所として賑わったはずである。「摂津名所図会」や「浪花百景」に、当時の風景が描かれている。