五十君神社で感じる自然の力。
五十君神社の特徴
素晴らしい神社との口コミが語る独自の魅力が光る場所です⛩️。
田舎の社ならではの落ち着いた雰囲気が訪れる人を包み込みます。
地域に根ざした神社として、信仰心を大切にする空間が広がっています。
神社巡り#185県道の案内板を曲がって直進するとT字路。そこを左折すると案内板のある鳥居に到着。電柱に隠れて「村社五十君神社」の社号標がある。鳥居脇のコンクリート舗装の道を進むと左手に参道。参道の両側には燈籠が並び、その奥に境内へと通じる石段。山の中にある神社で、境内が意外と広い。重機の無い昔、人力で整地したのかと思いながら、境内をぶらぶら歩く。拝殿には、神社の由来と宝物の写真付き解説。本日、一番モヤットしている事!ごじゅうくん神社の読み方が書かれていない。調べた読み方は、いそぎみ、いぎみ、いいみ、どれが正解なのか?隣にある風巻神社の宮司さんにお聞きした結果、「いぎみ」が正解と解った。鳥居前とか拝殿に、色々解説があったけど五十君神社にフリガナが無いのは、不親切!と思いました。
素晴らしい神社です!気に入りました😄又お参りに伺います!
田舎の社です⛩️
住所誤りです。三和区所山田550です。私は五十君神社の氏子です。岡田には風巻神社(県社)五十君神社と隣接してます五十君神社は延喜式式内社です。我が家は第一鳥居の手前です。良かったら声をかけてください。宮司は風巻神社の遠藤真臣氏です。社殿の写真は中越沖地震の後のものです。現在は修復されています。毎年8月8日の例大祭では県指定の神仏混合時代の鏡仏を公開しております。7月に入り、一の鳥居をに抜けると堀が左に見えます。毎年のようにフサタヌキモの花が可憐に咲き始めました。
| 名前 |
五十君神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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五十君神社(いきみじんじゃ)。新潟県上越市三和区所山田。式内社(小)、旧村社。【祭神】五十日足彦命(いかたらしひこのみこと、垂仁天皇の皇子)資料によると、御祭神の第11代垂仁天皇の皇子である五十日帯彦命は、大賀・不盡の二臣を従えて越後国に下り、池溝開発にあたったが、頸城郡高志八岐村で薨去した。そこで大賀・不盡の二臣はこの地にとどまり、命の御神霊を奉祀したのが当社の創始。第12代景行天皇の御宇に一社を建立し、五十王神社と称した。奈良時代の神亀3年(726年)、勅命により現社号に改称したという。なお、『越後頸城郡誌稿』には大宝3年(703年)3月3日の勧請とある。『和名類聚抄』に見える越後国頚城郡の「五公郷」、以木美(いきみ)は、この一帯に比定されている。『神社明細帳』によると、弘仁4年(813年)7月に神位を授かり、建仁2年(1202年)2月に正三位を賜ったという。戦国時代の永録3年(1560年)9月19日、関白近衛前嗣が西洞院時房などを従えて越後に下向した際、当社の神主が故あって奉仕者に選ばれたという。その神主が関白に従って上洛したので、その後は郡司が社務を預かった。翌年、再度下向した前嗣は、当社に参拝し、社前に咲く梅花を描き、奉納したという。また、上杉謙信は当社を祈願所とし、永録6年(1563年)11月、社用人馬通行の朱印状を与え、翌永録7年(1564年)6月3日、祈願料として57貫504文を寄進した。安土桃山時代の天正8年(1580年)4月3日、上杉景勝は社境の制札を掲げた。春日山城主堀秀治が福島築城にあたって当社の大木を伐採したと伝わる。江戸時代になり、慶長15年(1610年)には松平忠輝により社地が安堵された。慶長年間(1596年-1615年)、高志八岐村が諸山田村に改められ、天和年間(1681年-1684年)に所山田に改められたという。天和3年(1683年)の検地で、徳川幕府から除地高4石6斗3升1合、社地9町6反歩が付与された。明治6年(1873年)、村社に列した。明治40年(1907年)に村内の安部社(市入命)、十二社(天神七代・地神五代)、諏訪社(健御名方命)、征年方社(高志姫命)、大賀社(大彦命)、八幡社(誉田別尊)、美女池社(今子命・河沼姫命)、不尽臣社(武位起命・御才命・白石命)を合祀した。現在までに相殿神として、剣大明神(日本武尊か白鳥大明神)、飯縄大明神(倉稲魂命)が祀られている。主祭神の異説として、級長津彦命・級長戸辺命、五十猛命・太種大明神、物部印岐美連などがある。とあります。