走水海岸見渡す弟橘媛の碑。
弟橘媛命の記念碑の特徴
走水海岸が見渡せる位置で、絶景が楽しめます。
明治42年に刻まれた記念碑は歴史的な価値があります。
急勾配の小道を登るアドベンチャー感が魅力的です。
弟橘媛の記念碑です。暴風から日本武尊を助けるためにその身を犠牲にしたそうです。碑の建設には東郷大将や乃木大将、作家の竹田恒泰氏の曾祖母にあたる竹田宮昌子様が関係しているそうです。
記紀が好きな人は一度は来てみてもいいかも。作った人が東郷平八郎に乃木希典と、凄い。
2022.7.9.訪問走水神社参拝後、左手に伸びる石段の途中に建てられた石碑。更に石段を昇ると諏訪社・神明社・須賀社が並んで建てられている。走水神社には「舵の碑」も立てられ、弟橘媛命の姿がレリーフとして刻まれている。
走水海岸が見渡せる山の中腹にあります。
明治42年に勲1等昌子内親王(明治天皇第6皇女)の御筆により弟橘姫命の最後の御歌が刻まれ、除幕式が明治43年6月に行われました。さねさしがむのをぬにもゆるひのほなかにたちてとひしきみはもとあります。発起人は東郷平八郎、乃木希典等です。走水神社のかなり高台に碑があり、自分が行った時は曇ってしまったのですが、それでも対岸の房総が見えました。弟橘姫命が夫、日本武尊の東征の為、荒れ狂う海に入水したと思うと感慨深いです。
急勾配の小道を登ってきます。
| 名前 |
弟橘媛命の記念碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
046-844-4122 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
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英雄であった乃木希典・東郷平八郎両人を含む七名の発起により建設された弟橘比売命の顕彰碑。その契機は、当時の横須賀鎮守府司令長官であった上村彦之丞と、史跡探訪のため当地を訪れていた高崎正風が走水神社に参拝したことである。当時、日本武尊の東征の際に走水の海を鎮めるため自ら海へ身を投じ、夫を救った弟橘比売命の物語は、国家への献身を象徴する美談として広く知られていた。その縁の地である橘神社は、本来は旗山(御所ヶ崎)に鎮座していたが、明治十八年に国防政策によって陸軍用地となり走水神社境内へ遷座され、さらに明治四十三年には神社合祀政策によって走水神社へ合祀されていた。由緒ある遺跡が歴史の表舞台から見え難くなる。上村らは、国家政策によって聖地が翻弄される姿に複雑な感情を抱いたものと見られ、弟橘比売命を顕彰する石碑建立を計画した。予算は当時約千円(現代価値で数千万円)で、根府川石を用いた石碑が建設された。碑面には、「さねさし」の御歌が刻まれ、裏面には弟橘比売命の献身とその精神を顕彰する文章が記された。以下に翻刻する。「嗚呼此者弟橘比賣命以まはの御歌なり命夫君 日本武尊能東征し給ふに伴者れ駿河尓てハ危き野火の禍を免連此乃走水の海を渡り給ふ時端無く暴風尓遭ひ御身を犠牲として尊能御命を全からしめ奉里し其乃いまはの御歌な里御歌に溢るヽ眞情盤すへて夫君能御上に注き露者可りも他尓及者寸そ能貞烈忠誠まことに女子乃龜鑑たる能ミなら春亦以て男子の模範多るへし平八郎等七人相議里同感者能賛成を得紀念を不朽ならしめむと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下尓乞ひ奉里彫里てこの石を建つ」碑文中に「女子の龜鑑たるのみならす亦以て男子の模範たるへし」とあるが、これは「女性ですらこれほど身を捧げたのだから、男子はなおさら国家のため尽くすべきである」という道徳的教化を意図したものと考えられる。当時の日露戦争後の日本では、前線兵士だけでなく銃後の国民にも国家意識や犠牲精神が求められるようになっていた。そのため、忘れられつつあった弟橘比売命の精神に仮託し、国民教化や愛国心の涵養を図ろうとする意図があったものと考えられる。このように、本碑には夫や国家への献身を最大の美徳とする明治期の価値観が色濃く反映されている。完成した石碑の除幕式には発起人をはじめ多くの文武官や著名人が列席し、島崎藤村も歌を寄せるなど多数の奉献歌が集まったという。しかしながら、国家や家庭のための自己犠牲を理想化し、男女の役割を規定する思想は、個人の尊重や多様性が重視される現代の価値観とは相容れないものであり、今日では必ずしも受け入れられるものではないのだろう。