桜井の地名由来、若桜神社の魅力。
若櫻神社の特徴
若櫻神社は、伊波我加利命が祭神の式内社です。
桜の井という伝説的な井戸が近くに存在します。
履中天皇に関連する歴史深い場所とされています。
泣き出しそうな鈍色の雲が空を支配する中、ようやく参拝に。本社は程よい階段を登った高台に。本殿、摂社にウマシウチさん、ヤマトアエクニオオヒコさん、伊波我加利命がお祀りされ、境内霊気満ちて快く、目視の限り3本のねじれ杉がありました。古くは、佐久那太理セオリツ神ホノコさんの妹さん、ワカサクラ姫ハナコさんがご祭神だったと聞きます。拝殿の棟巴瓦、鬼瓦にそれを見ます。ご承知の通り、スサノウ神に太駒/荒馬を斎衣殿に投げ込まれ絶命されるミスフォーチュンプリンセス。スサノウ神もなんでまたそんな事をと半ば憤りを感じますが、何かの比喩でしょうね。それを類推してしまえば、ワカ姫がもう一度傷心されることになるので、しないでおきます。気持ちに整理を付け、参拝を終えたころ、車軸が上着を濡らし始めました。ちょうど下校を迎えた近くの高校の学生さんたちもなすすべ無く、キャッキャと走りながらびしょ濡れに。傘もなく、なんでまたと襟を立てましたが、きっとワカ姫ハナコさんの禊の雨と感謝しました。穢れきった私も少しは浄められた気がします。駐車場はありません。少し離れた銀行ビル横にコインPがあります。
「稚櫻神社」と共に式内社「若櫻神社」の論社となっています。社名の通り桜の花が綺麗に咲くのかは分かりませんが、もう一度桜の季節に参拝して確認したいと思いました。
若櫻神社 式内社 旧村社御祭神伊波我加利命境内摂社 高屋安倍神社 屋主彦太思心命 大彦命 産屋主思命瑞垣内に2つの祠がある。西は摂社高屋安倍神社。白山権現とも称された神社で、式内社・若櫻神社に比定されている古社。祭神・伊波我加利命は、伊波我牟都加利命の後裔で、若櫻部朝臣、阿部朝臣等の祖であるされている。本殿内には、大正まで当社東の小祠に祀られていた神武天皇を祀る多神社が合祀されている。本殿の隣にある摂社・高屋安倍神社は式内社・高屋安倍神社に比定されている。
桜井、地名譚縁の地です。
安倍文殊院の帰りに初めての道を歩いていて櫻の字が目に飛び込み気になって目の前の石段を上りました。昔は立派だったろうに、寂れた感がしていて、、(泣)祓戸の石碑まであるのに。
「磐余・山田の道/万葉の道」巻八の一の六 桜井市大字谷若櫻神社(わかざくらじんじゃ)この近辺の「山之内」という場所に同じく稚櫻神社(わかざくら)という社があります。履中天皇の『磐余稚桜宮』はこの辺りにあると伝えられています。盃のなかに桜が舞い込んだエピソードから名付けられた皇居名というから何ともお洒落なセンスがあったことです。仁徳天皇から引き継いだ御代は泰平の世で、履中天皇もその世を引き継ぎ永きに亘って治めたということです(日本書紀)。
素敵な場所です。
「若桜の井戸(復元)」がありますが、ここから50mほど北上(桜井駅方向)して左折(三宝稲荷荼枳尼天へ)するとすぐに、地名の元になった「櫻の井」があります。桜井市のホームページによると履中天皇が磐余池に行幸になり、「桜の井」の水を召し上げられ、これを賞美されてより、「桜井」の地名となったという伝承もある。解説看板の横に井戸があればこれが地名の元になった井戸と混同してしまう。せめて「櫻の井」への案内が必要では?わざわざ復元した「若桜の井戸(復元)」の説明もない。水脈が同じだから同列の扱いでしょうか?まあ、昔にたくさん井戸があって残っていたのが「櫻の井」と言うだけで、この辺の井戸ならどこでも良いのかもしれませんが・・・。
若櫻神社わかざくらじんじゃ奈良県桜井市谷344祭神伊波我加利命阿部朝臣等の祖磐余稚桜宮との関連ありか?この地域の神社には金毘羅大権現の石碑が建っている所が多い金毘羅大権現は四国の漁業神ではなく大国主命の息子の事代主神であろう大国主命の国譲りはあるいは現桜井市で行われたか?諸情報駐車場なしトイレなし道中特に困難なし。
| 名前 |
若櫻神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=33886 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
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若桜神社(わかざくらじんじゃ)。奈良県桜井市谷。式内社(小)若桜神社の論社。池之内地区に鎮座する「稚櫻神社」と共に式内社「若櫻神社」の論社となっています。式内社(名神大)の「高屋安倍神社」が境内社として鎮座しています。旧呼称\t:白山権現 等。主祭神:伊波我加利命資料によると、当社の創建は次の『日本書紀』履中天皇三年十一月六日の条に関わっています。この故事に因み、「物部(稚桜部)長真胆連」もしくは「膳臣(稚桜部)余磯」のいずれかの氏族が祖神を祀ったのが式内社「若櫻神社」だったと考えられます。関係する氏族として『新撰姓氏録』には次の氏族が登載されています。右京皇別「若桜部朝臣」(阿倍朝臣同氏 / 大彦命の孫、伊波我牟都加利命の後)右京神別「若桜部造」(神饒速日命の三世孫、出雲色男命の後)和泉国神別「若桜部造」(饒速日命の七世孫、止智尼大連の後)この内、1.が膳臣余磯の子孫の阿倍系氏族で、2.と3.が物部長真胆連の子孫の物部系氏族となります。(以降、当記事では前者を「阿倍系若桜部氏」、後者を「物部系若桜部氏」と表記)いずれも大和国には登載されておらず、恐らく漏れているのでしょう。当社の御祭神「伊波我加利命」は阿倍系若桜部氏の祖の伊波我牟都加利命(磐鹿六鴈)のことかとも思える一方、『奈良県史』には伊波俄牟都加利命の後裔であるとあり、別人としています。ただ、とすれば何故に一般に阿倍系氏族の祖とされる伊波我牟都加利命(磐鹿六鴈)でなく、わざわざ史料に登場しない人物を祭神にしたのか疑問です。いずれにしても当社は阿倍系若桜部氏が奉斎した神社とされています。一方、もう一つの論社である池之内地区の「稚櫻神社」は御祭神を「出雲色男命」としており、物部系若桜部氏が奉斎した神社とされています。このように式内社「若櫻神社」の論社二社は由緒は同じ故事に基づくものの別系統の氏族を祀っている神社となっています。当社の南方にはかつて阿倍氏の奉斎した「高屋安倍神社」が鎮座しており(現在は当社境内に遷座。後述)、また南西に隣接する阿部地区はその地名もさながら、阿倍氏の氏寺として創建された華厳宗の寺院「安倍文殊院」があり、当地一帯は阿倍系氏族の一大本拠地であったことがわかります。この一方で上記の故事に登場する「磐余市磯池」は池之内地区・橿原市東池尻町辺りあったとする説が有力で、平成二十三年(2011年)には実際に橿原市東池尻町から古代の池の堤を思わせる盛り土が発見されています。これに対して当社の西方約200mほどのところに鎮座する「石寸山口神社」の辺りであるとする説もあり、未だ確定はしていません。磐余市磯池の所在地としては池之内地区の方が有力ですが、池之内地区が城上郡(式上郡)だったとは考えにくく、郡域を見れば式内社としては当社の方が妥当だと言えそうです。実際、『大和志料』はじめ多くの地誌では当社を式内社としています。なお、当社は江戸時代以前は「白山権現」と呼ばれ、白山信仰の神社とされていたようです。とあります。