桜満開の坂上田村麻呂墓。
坂上田村麻呂之墓の特徴
ひっそりとした住宅街にある坂上田村麻呂の墓は静かな雰囲気です。
彼は朝廷に仕えた著名な征夷大将軍で、歴史的な背景があります。
隣接する勧修小学校から子供たちの声が時折聞こえてきます。
お参りできてよかった。長い間気懸かりでならなかったお方。日本初の征夷大将軍(平安時代)。現在の音羽山清水寺の本願(者)、自邸を奥様の当病平癒のため寄進しました。数々の伝説的功績がありますが、奥様を愛していたんですね、実は、とてもお優しいところがあるのかもしれません。写真の撮影日は、すべて、2025.06.04(水曜日)
明治時代に建国の歴史を顧みて墓所や神社など記念碑的な復刻が行われていた時には坂上田村麻呂の墓で良かったのですが大正時代に西野山古墓が発見された事で雲行きが怪しくなってしまった所です。その西野山も大正時代の資料で古墓とされている場所は宅地化で消滅していて違う場所にこの辺りの碑が建てられています。将軍は鎧をまとい東に立って埋葬されたとの話とは違い、発見された被葬者は鎧をまとわず京都が見えない斜面に北西(御所)向きに寝ていたそうなのでここも果たして御本人なのか?です。お参りするなら素性明らかな清水寺の開山堂がオススメです。
京都市山科区勧修寺東栗栖野町にある坂の上田村麻呂の墓です。この墓には、平安前期の武將坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を葬っている。田村麻呂は、奈良時代の武將坂上苅田麻呂の子。延暦20年(801)征夷大將軍となり、遠く陸奥(むつ)に出陣して蝦夷(えぞ)を討ち、胆沢城(いざわじょう)などを築いた。京都にあっても弘仁元年(810)の薬子(くすこ)の乱などに活躍し、官職は右近衛大將にいたった。田村麻呂は赤ら顔のひげづらで怪力の持主、眞の勇者であったといわれ、後世の武士からも尊崇された。「征夷大將軍」は武門最高の栄誉となることは周知のところである。弘仁2年5月23日死去、54才。この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺におさめられ、平安京にむかって立ったまま葬られた。死してなお平安京の守護神とされたわけで、のち国家に危険ある時は塚の中で大きな音がしたといわれる。これを「將軍塚鳴動」という。(後世東山の將軍塚が有名となるが、本来の將軍塚はこの墓である)田村麻呂はまた佛教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名である。なおこの墓地は明治28年平安遷都1100年祭にさいし整備されたものである。田村麻呂はまた仏教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名です。アクセスは、地下鉄東西線椥辻駅下車し、新10条通りを西へ10分にあります。坂の上田村麻呂公園の中にあります。
小学校が隣接するため時折子供たちの声が聞こえるがとても閑静。日本史上2人目の征夷大将軍となる坂上田村麻呂の墓所といわれていた場所で、通称 田村の森として親しまれている。永らく坂上田村麻呂の墓所とされてきた場所だが、明治の半ば 平安遷都1100年記念事業の一環として整備されるまでは荒廃していたという。現在では、研究が進み坂上田村麻呂の墓所は西野山古墓が最有力といわれているが、例えそこに田村麻呂が眠っていようがいまいが地元の人たちの間では田村麻呂が慰霊されていることには変わらない。
初の征夷大将軍として蝦夷討伐を行なった人物の墓が、こんな住宅地の片すみにあるとは驚き。訪れる人もなく、すぐ横にある忠魂碑の方がはるかに目立つ。
山科地区・中臣遺跡内にある坂上田村麻呂の墓とされている場所です。平安時代に二度も征夷大将軍になった武将で、蝦夷大将・アテルイを捕らえたことで有名です。東北には田村麻呂軍と蝦夷が戦った伝承や、平定祈願として創建した神社や寺院がたくさんあります。公園入口には、明治28年5月建立の碑が建っています。篆書字体で「贈従弐位坂上将軍之墓」とあります。その他本文は薄くなっていて変色があるため非常に読みにくいです。読むのを断念しました。発起人が連名は全員分はっきりと読めます。墳墓前には鎖が付いてます。立入禁止とはありませんから、普通に入っていって手を合わせることができます。茗荷紋が入った新しい墓石には「征夷大将軍 正二位右大臣 坂上田村麻呂公墓」とあります。官位に不一致があります。非常に気になりました。古いお墓ですから、信心深い人は近づき過ぎない方が無難かもしれません。以下、現地にある由緒板の内容。坂上田村麻呂の墓この墓には、平安前期の武将坂上田村麻呂を葬っている。田村麻呂は奈良時代の武将坂上刈田麻呂の子。延暦20年(801)当時の日本では大きな問題になっていた蝦夷地を平定するため征夷大将軍に任命され、遠く陸奥に出兵し、これを治めて大変な功績をあげた。京都にあっても弘仁元年(810)薬子の乱などに活躍し、官職は右近衛大将にいたった。弘仁2年5月23日死去、54才。この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって、甲冑、剣や弓矢を具した姿で棺に納められ、平安京に向かって立ったまま葬られた。田村麻呂はまた仏教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名である。なお、この墓地は、明治28年平安遷都1100年祭にさいし整備されたものである。 京都市。
桓武天皇に征夷大将軍として仕えていた811年に亡くなり、甲冑兵杖を身につけ立ち姿のまま葬られたと伝えられる墓です。後18世紀の絵図には花山稲荷と共に描かれ、今も田村の森として隣の勧修小学校の校歌に使われ地味に人々の中に入り、田村の森公園として坂上田村麻呂の存在を感じられる場所でした。
大通りから一本入った、ひっそりとした住宅街の中の公園の一角に、かの有名な征夷大将軍である坂の上田村麻呂のお墓があります。え!?こんなところに!もっと絢爛豪華にしつらえたものじゃないの?というくらい意外な感じですが、これはこれで意外なところですごいスポットに出会えたなぁ〜、なんて気分にさせてくれます。
勧修小学校の裏手。小学生から罵声を浴びる覚悟が必要。
| 名前 |
坂上田村麻呂之墓 |
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| ジャンル |
/ / |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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平安時代はじめに征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷討伐に活躍した坂上田村麻呂。教科書等で名前は知っていても、どんな人物だったのか詳しくは知らない人が多いのではないでしょうか。ここ山科栗栖野の一角に田村麻呂の墓があります。この地が田村麻呂の墓所に比定された経緯はいろいろあるようですが、最近ではこの墓所は周辺に勢力のあった豪族中臣氏の遺構と考えられているようです。ともあれ、現在も田村麻呂の墓を示す墓碑銘が残っています。墓所の北側は遊具のある公園になっていますが、いずれも手入れがあまり行き届かず、草むしている状態なのが気になりました。