歴史の息吹感じる、五輪橋近く。
五輪橋橋詰めの塚(柴田権十郎正俊の塚)の特徴
五輪橋の手前に位置する歴史的な塚です。
享保八年に関する貴重な連判状があります。
美しい百済川の堤に埋もれた歴史を感じる場所です。
平野川の支流のごりん橋の手前にあり、民家の間にあります✨大阪奉行所 北条安房守、鈴木飛騨守に提出した連判状でここの桑津村役人残り連判状であり、享保八年發卯年二月七日の銘があり☺️この支流は百済川とあり☺️桑津村百済川の堤にて七本槍の一人福島正則の家臣柴田権十郎正俊討死の塚❗️この近くに蜂須賀九郎右衛エ門討死の塚あり☺️百済川も汚れておりますが、雨が降ると大きな川が無く排水の役目をするのでわあ❗️水が綺麗と川面に浮かぶさくら🌸の花びらも美しのでわあ❗️(西暦1723年 中御門天皇の時代)✌️☺️☺️☺️石碑の側に五輪塔があり、宗派は違っても(じゅじゅ)にて合掌。✌️☺️☺️☺️☺️
桑津3丁目付近の駒川にかかる橋には、「五輪橋」と命名されています。 橋の名前にもなっているこの五輪塔は大阪夏の陣の際(1616)、平野と共に奈良街道に沿った桑津も激しい戦場になり、ここで亡くなった二人の武将を供養したものです。江戸城留守居役として動けなかった賤ケ岳の七本槍で有名な福島正則(※)に替わって、侍大将の柴田権十郎正俊が豊臣方に付き、徳川方に味方した蜂須賀九郎右衛門とこの地で闘い、九郎右衛門の首を討ち取るが、自らも重傷を負いこの地で自刃しました。住民が二人の供養をし、二つの五輪塔を建立しましたが、一基(九郎右衛門の墓)は行方不明となっています。※ 福島政則(永禄4年:1561~寛永元年:1624)母が秀吉の叔母に当たる関係で幼い時から秀吉に仕え、山崎の合戦(明智光秀)や賤ヶ岳の合戦(柴田勝家)で突出した武功を示す。 文禄の役(韓国)では、文官の石田三成と対立し、秀吉の死後に加藤清正と共に、三成を襲撃し、徳川家康に取りなされます。 これが縁で、清正も正則も家康に付き、関ヶ原の合戦(清正は既に死去)では武功により、安藝(広島県)国(50万石)を与えられます。しかし、豊臣秀頼に対する忠誠心が厚く、後に二代将軍秀忠により、些細なことを口実にして、息子・正利は3千石の旗本に移されます。大坂夏の陣では、家康が正則の大坂方への寝返りを警戒し、江戸城留守居役として、正則の行動を封じ込めたので、柴田権十郎が身代わりとなって、秀頼に味方したと言われています。
桑津東公園の北側、駒川沿いの歩道脇に隠れるようにひっそりとあります。窪んだ場所にあるので予め存在をしっていないと見つける事も難しいです。名前の由来ですが、大坂夏の陣の際にここで戦い亡くなった柴田権十郎正俊(豊臣側)と蜂須賀九郎右衛門(徳川側)の供養にそれぞれ五輪塔(お墓)が建立されました。そこからすぐ傍にある橋の名前が五輪橋となり、現在は五輪橋橋詰めの塚と呼称されているそうです。蜂須賀九郎右衛門の為に建立された五輪塔は現存してない為、柴田権十郎正俊の塚とも呼称されています。なお、柴田権十郎正俊の参戦には複雑な事情があるようです。主君の福島正則は豊臣から徳川に鞍替えしたけど豊臣に恩義を感じており、代理として柴田権十郎正俊が豊臣側で参戦したとか・・・
| 名前 |
五輪橋橋詰めの塚(柴田権十郎正俊の塚) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
〒546-0041 大阪府大阪市東住吉区桑津4丁目12−31 |
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この辺りは大阪夏の陣での最終激戦地となり家康の本陣だった天王寺茶臼山からもほど近く、詳細は分からないのですがここでも戦いが繰り広げられたのでしょう。ここには福島正則の家臣・柴田権十郎正俊の墓があります。福島正則は大阪の陣では警戒され江戸留守居役を命じられて従軍していないので、おそらく嫡男の福島忠勝に付き従っていたのかぁと推測します。正俊は徳川方の蜂須賀九郎右衛門と戦い首を取るも自らも重傷を負いこの地で自刃したそうです。その蜂須賀の墓も近くにあったらしいですが今では失われてしまっているそう。大阪の陣を今に物語る貴重な史跡です。