坂上廣野磨屋敷跡と平野郷の歴史。
坂上廣野麿屋敷跡の特徴
坂上廣野磨屋敷跡は平野区の歴史的に有名なじんぶつです。
村の中心に位置し、今は石碑だけが残っています。
平安時代に活躍した坂上田村麻呂の次男がここに住んでいました。
家から歩いて10分位の場所に有る平野区の歴史的に有名なじんぶつである坂上廣野磨屋敷跡、平野郷の歴史の中では大変重要な場所です。石柱には詳しい内容が刻んだ有るので、平野区の歴史に興味ある方は是非とも訪れてみて下さいね。
住宅街に突如として現れる、今は石碑のみだが位置は村の中心辺りです。
今では石碑があるだけです。
坂上田村麻呂(田村麿)という名前を聞いたことはないだろうか。平安時代初期の武勇で知られる征夷大将軍だ。その次男が廣野麿。その屋敷跡碑が道路上にひっそりと立つ。当然いまは屋敷などない。なんせ彼は1200年以上も前の人だ。近くにはお墓もある。この平野の地には遠く平安の世から人々は住んでいた。それを思えば感慨は深い。
坂上廣野は田村麻呂の次男。平野庄の開発領主で平野殿と呼ばれていたそうです。
アパートの前に石碑がポツンとありました。平野区にとっては『ひらのまち』の由来になった大事な人の屋敷跡やのに、なんか寂しくなりました。もう少し何とかならないもんかなぁ。
平安朝の初め(800年頃)蝦夷との戦いに武功をたてた坂上田村麿の第2子廣野麿が、朝廷から杭全庄を賜わり、この地を領有した。廣野麿は、嵯峨、淳和の二帝につかえ、右兵衛佐に任じられこの地に永住し、天長5年(828年)3月9日に亡くなった。坂上家は以来、代々民部を名乗り、この地を領有し、人々から平野殿と呼ばれたが、地域の発達とともに子孫が広がり、のちに平野の七名家となった。
平野の地名は 「ひろのまろ、ひろのまろ、ひらの----」 ひろのまろと呼んでいる間に、「ひらの」になったと言われています。
石碑がポツンとあるだけで、『平野』と呼ばれる地名の元となった過去に平野郷のために尽力した坂上廣野はどう思っているのだろうかと...。
| 名前 |
坂上廣野麿屋敷跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
06-6791-8882 |
| HP | |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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平野区平野上町に有る史跡。坂上廣野麻呂の屋敷が有ったとされる場所。写真アップしておきますので興味ある方は1度尋ねられては、どうでしょうか?