青空の下、湧出宮の奇祭を体験!
和伎坐天乃夫支売神社の特徴
深い森を抜けると開けた境内が広がります、青空と共に心を癒やす場所です。
有名な居籠祭は2月に行われ、奇祭を体験する絶好のチャンスです。
戦火で再建された本殿が持つ歴史の重みを、ぜひ感じてください。
和伎座天乃夫岐売神社(わきにますあめのふきめじんじゃ)通称:涌出宮(わきでのみや)は、天平神護2年(766)、伊勢国度会(わたらい)郡五十鈴川舟ヶ原より、天乃夫岐売神(あめのふきめのかみ)を勧請し創建されました。山城の国祈雨十一社の一社で、雨をもたらす神として崇拝されてきました。式内社です。本殿は元禄5年(1692)造立されたもので府登録有形文化財に指定されています。拝殿は江戸時代初期に造立されたもので山城町登録有形文化財に指定されています。神門は瓦葺・平入切妻造の四脚門で朱が施されています。室町時代の建築と考えられ、木津川市指定文化財となっています。本殿前東側石燈籠は南北朝時代(1337年~1392年)に造立されたものです。灯篭は花崗岩製で京都府登録有形文化財に指定されています。竿が四角型石燈籠は鎌倉時代末期に出現し、南北朝から室町時代にかけて流行したものです。
蟹満寺で国宝の釈迦如来像を拝んだ後、テクテク歩き奇祭で名高い湧出宮を目指し拝観です。居籠祭、雨をもたらす神として崇敬されている祭り、和伎坐天乃夫支売神社とも謂われているそうです。
涌出宮 正式名は、和伎座天乃夫岐売(わきにいますあめのふきめ)神社と言います深い森を抜けると、境内は開けて青空が見えます居籠(いごもり)祭 という奇祭が有名です、2月に2日間行われるようです。
戦火で何度も焼け落ち、何度も再建された本殿である。銅板葺の流造。大型だが隠されていないのが嬉しい。幣殿と屋根で繋がっている。社蔵の「堂社氏子僧遷宮記」よれば、現本殿は元禄5年(1692)の造営で、「三間社流れ造り」で屋根には「千木・勝男木」置くとある。それ以前には中世の戦火で度々焼失し、源頼朝や、後小松朝、後柏原朝の御世にも再建された。昭和50年には本殿の屋根が檜皮葺から銅板葺き変わり、現在の形になった。
朝早く伺った事と、少し前夜雨が降った事もあって、入口の鳥居から少し冷たい森の香りが漂ってきました。静謐に包まれた鎮守の森の道を進と見事な朱色に塗られた鳥居が出迎えてくれます。その先に構える門は質素であり現世と俗世をしっかりと分けているかのような感じがします。門をくぐり抜けて右手に少し回ると本殿があります。非常に質素ですが地域の信仰はあついようで手入れは比較的しっかりとされています。とても歴史は古く平安時代から建立されていたようです。名称からも想像がつくかも知れませんが雨乞いが行われていたそうです。この森を歩くと何か神秘的な物を感じます。古代人もそう感じたのか、弥生時代の集落跡地に、この社殿は建っているそうです。周囲に個人的な駐車場が有るようですが電車で向かうのがベストです。蟹満寺に駐車して歩くのも良いかも知れません。
国宝の銅造釈迦如来坐像を蔵する蟹満寺の最寄駅である棚倉駅の駅前にあって、他の名所まで足を延ばすには遅く、列車の到着までには持て余すほどの時間があったので立ち寄りました。神職は不在ながらもみすぼらしくない程度には手入れされています。ただ、わざわざ見に行くほどの見どころはありません。一の鳥居をくぐって参拝して、二〇分ほどで一の鳥居まで戻ってこれるので、このあたりまで来るついでがあればどうぞ。ただ、本数の少ない電車を一本やりすごしてまで参拝する価値はないように思います。
| 名前 |
和伎坐天乃夫支売神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0774-86-2639 |
| HP |
https://www.city.kizugawa.lg.jp/index.cfm/8,28747,36,421,html |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
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和伎坐天乃夫支売神社(わきにますあめのふきめじんじゃ)。京都府相楽郡山城町平尾里屋敷。式内社(大)、旧郷社。【祭神】天乃夫岐売命 田凝姫命 市杵嶋姫命 湍津姫命資料によると、社伝によれば、天平神護二年(766年)に伊勢国度会郡から「天乃夫岐売命」を当地に遷座し、その際に一夜にして森が涌き出したので「涌出宮」と称するようになったと伝えられています。また、後に同じく伊勢国から「田凝姫命」「市杵嶋姫命」を相殿に遷座したと言われています。神域一帯は縄文時代前期から弥生時代にかけての遺跡(湧出宮遺跡)で、縄文時代の竪穴式住居跡が発見され、土器・石器が出土しているようです。御祭神の「天乃夫岐売命」は記紀に見えない神で、当社では天照大神の御魂のことであると伝えられています。「湧出の宮」の由来譚は附会として、社名に示される「和伎」という地名は何かしらが湧き出たことによるものと思われます。地理的には「水」が湧いたのではないかとも。御祭神も水が湧いた(吹いた)ことによる神名ではないかとも考えます。素朴な自然神であったのかもしれません。当社は山城国祈雨神11社の一つに数えられているとのこと。そして清和天皇の貞観二年(859年)に奉幣使が立てられ祈願されたと伝わります。ただしこの11社がどの社を指すのか不明。また宇多天皇の昌泰元年(889年)にも奉幣使が立てられ祈願されたと伝わります。干魃により近くを流れる「木津川」の水源が枯渇したものと思われます。ここから水が涌き出たということでしょうか。とあります。