百済来地蔵堂で歴史を感じる。
百済来地蔵堂の特徴
何度も訪れたいと思わせる感動の場です。
昔の日本と朝鮮半島の関係について学べます。
百済来地蔵堂は歴史を感じる特別な場所です。
百済来地蔵様には色んな場面で本当に助けてもらってます。
歴史を肌で感じられ、昔の日本と朝鮮半島との関係について、思いを馳せる場所になります。
百済来地蔵堂葦北の国造・阿利斯登の子"日羅"は、百済にわたり30余年滞在し最高官の達率に昇進。572(敏達天皇元)年、百済から父へ地蔵菩薩像を送る。772 (宝亀3) 年、日羅の墓に堂を建立し菩薩像を安置。中世には山門・仏殿なども構えた 雲泉禅寺となる。堂の右手の高台にある当時鎮守の富士権現 (村上神社)、五輪塔群、1556(弘治2)年銘の板碑に名残がある。大火後の1604 (慶長9年再建。 1820(文政3) 年に改築。1911(明治44)年に境内を拡張し堂を移転・修築。 参道の階段を上り右に1816(文化13)年銘の宝篋印陀 羅尼塔、左に日羅公墓あり。(由来)日羅公とは六世紀頃(西暦584没)朝鮮半島に渡り活躍した偉人です。葦北国(当時の水俣〜津奈木〜田浦〜二見〜日奈久)出身。津奈木町に日羅公を祀った神社があります。親父は国造刑部靭部阿利斯登(ゆげいべのありしと)現在の八代市坂本百済来出身。日羅の親父である阿利斯登は、第28代宣化天皇の時代(西暦535〜539)に新羅が任那を侵略(西暦537)しようとした時、大伴金村の息子狭手彦(さでひこ)と共に任那へ行き、任那※、百済を救援しにいった。※任那とは当時における「倭国」の領土とされている。そのまま任那もしくは百済へ留まった阿利斯登(ありしと)は子の日羅と共に定住します。562年任那がなくなった後も、日羅は30年間勉強し百済の高官になったとあります。達率(だちそち)という極めて高い位まで昇った人物だそうです。(百済の官位十六階の第二位)第30代敏達天皇の命により西暦583年に帰国。彼はこの期間に、百済の官僚として行政機関を実務として担いながら中国の律令制を学び、当時日本に伝来していなかった仏教を身近に過ごしていた事を考えるなら、日本の「律令制及び仏教公式伝来の生みの親」とも言える人物ではないでしょうか。
百済来地蔵様です。大きな如来像がいらしゃいます。
| 名前 |
百済来地蔵堂 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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小さい頃から毎年お世話になっています。