関ヶ原で迫る戦の記憶。
松平忠吉・井伊直政陣跡の特徴
松平忠吉と井伊直政の陣跡は歴史を感じさせます。
関ヶ原駅近くで、タイムスリップの体験が楽しめます。
戦場の位置を知ることで、合戦の緊張感を味わえます。
関ケ原の戦い E東11松平忠吉・井伊直政陣跡-----説明文より-----徳川家康の四男松平忠吉と、その舅で徳川四天王の一人として名高い井伊直政は、ここより約200メートル東、現在のJR関ヶ原駅付近に約6千の兵を率いて布陣した。忠吉はこの戦いが初陣で、直政が後見役を務めた。関ヶ原に布陣した徳川家直属の兵力は、家康の本隊約3万、他に本多忠勝の約5百のみ。家康の嫡男・秀忠が率いる別部隊は、未だ東山道(中山道)の途上にあり間に合わない。このため、先鋒は豊臣恩顧の福島正則に任されていた。しかし、徳川家が先陣を切ることが重要と考えていた直政は、午前8時頃、忠吉とともに数十騎を従え、福島隊の脇を進み抜け駆けする。正則の家臣・可児才蔵(吉長)に咎められるが、直政は初陣の忠吉に合戦の見聞をさせると弁明し、そのまま宇喜多秀家隊に近づき発砲。抜け駆けされた福島隊も続いて発砲し、戦いの火蓋が切られた。戦いは東軍の圧勝で幕を下ろすが、直政と忠吉は戦いの終盤に戦地から脱出する島津義弘隊を追撃するうち、反撃を受け負傷してしまう。二人はこの傷が原因で後に亡くなったという。
岐阜関ヶ原古戦場記念館から歩いてすぐのところにあります。実際の場所はもう少し東側とのことですが、東山道は少し低い位置にあったであろうことから、ここはここでよいと思います。とにかく、東軍は徳川家康も福島正則も黒田長政もよく動いており、時間とともに変化する戦場の様子が見て取れる一角です。関ヶ原町全体が歴史博物館ですね。
ここは、銀箔置白糸威具足の純白の甲冑を身に着けた「松平忠吉」と、赤鬼と恐れられた赤備えの「井伊直政」の陣跡です。2人が立ち並び、関ヶ原の戦いを先駆けたとされます。以前は東200m先にありましたが、大正時代にこの地へと移転されました。いにしえの歴史に想いを馳せることができる地です。
東首塚に隣接、後見役の井伊直政6千人兵力が家康本隊主力。家康を守護するような陣位置です。
東首塚ある朱色門の反対側から数段降りると陣跡がありました。観光案内所の看板にある福島正則コースの1箇所目になります。
徳川軍、井伊直政と松平忠吉の陣跡地です。
家康を守る最前線かな。
関ケ原駅近くにこんな場所があるなんてちょっとしたタイムスリップ妄想ONしちゃいます。
松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。東条松平家第4代当主、尾張清洲藩主。井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、手傷を負うも島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。
| 名前 |
松平忠吉・井伊直政陣跡 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP |
https://www.sekigahara1600.com/spot/matsudaira-ii-jinato.html |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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東首塚の近くにあります。碑や看板、説明板が設置されており、陣跡の場所や歴史について知ることができます。説明板には、松平忠吉と井伊直政がこの戦いで果たした役割が簡単にまとめられており、歴史に詳しくない人でも理解しやすくなっています。