村上鬼城の眠る、風情あるお寺。
髙﨑山 清凉院 龍廣寺の特徴
村上鬼城のお墓があり、文学的な歴史を感じる場所です。
烏川の橋の袂に位置し、自然との調和が魅力的です。
四季折々の花が咲き、訪れる人々を楽しませてくれます。
大きな神社です。利根川の対岸に高崎観音が小さく見えます。
南に遠く髙﨑觀音を望み、眼下を烏川と国道18号線が並行する高台にある禅寺。井伊公は箕輪から城を移すにあたり、箕輪の龍門寺の白庵和尚の知恵を借り、それまでの和田宿の地名を髙﨑と改めて、後に和尚を髙﨑城下の龍廣寺の開山住職として招いたと言われる。その故事にちなみ山名は髙﨑山。衒いのない質実さが際立つ本堂(皇風永扇佛日増輝と皇室と仏教の繁栄を願う扁額が掲げられている)の隣りに神社があり、おびただしい墓石が並ぶ軍人墓地の最奥部のサクラの老樹の下に日露戦で捕虜となり、看護の甲斐もなく亡くなった若きロシア兵の墓が3つある。山門、鐘楼は補修工事中。🅿️あり。2025/10/29
(2025.02)上毛かるた「か」【関東と信越つなぐ高崎市】☆髙﨑 はじまりの地☆髙﨑城址公園の近くに建つ龍廣寺山門には「髙﨑山」の文字が掲げられている「髙﨑」の地名はここからはじまった!以上。
威風堂々としたお寺ですね。とてつもなく強い意志と信念、「武士の情」みたいなものを感じます。整然とした落ち着きがあります。本堂は大正五年(1916年)、山門はもっと古い。「高崎」の地名がここに始まったらしい。井伊直政は、当初、「松ヶ崎」という地名にしたかったが、龍廣寺和尚 白庵から、「松は枯れる。成功高大の意味を込め高崎はいかが」と進言を受けたという。こちらにも、第二次世界大戦時に、一度は供出されつつも、戻された鐘があると聞きました。「時の鐘」というか、地域の人達と共に歩んできた証があるのでしょう。
ロシア人兵士や村上鬼城、陸軍兵士の墓等がある。高崎の歴史を学べる場所。
街に根づいたお寺って感じです。静かな佇まいで、整備などもいきとどいたお寺でした。駐車場は寺の前にありますが …台数は少ないため注意して下さい!お寺には御手洗などなしの為、こちらも注意してくださいね!近隣を散策しながら訪れてみてはいかがでしょうか?
参拝者が使用できるトイレが屋外にも欲しい。
烏川に架かる橋の袂の坂を上がる途中に趣のある山門があった。寺内は静寂に包まれていた。日露戦争のロシア兵の墓があり、その由来に深く感銘した。
俳人、村上鬼城のお墓があります。
| 名前 |
髙﨑山 清凉院 龍廣寺 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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徳川四天王の一人、井伊直政が開基のお寺で、信任の厚かった龍門寺住職白庵秀関和尚を初代住職として龍廣寺を建立したそうです。龍廣寺のホームページには「高崎」の名前の由来が書かれていました。井伊直政が幕府の命により箕輪から和田宿へ移り住み、城地を決定するために、鷹を放ったところ、現在の城跡の松の木にとどまったそうです。ところが旧称「和田」を「鷹が崎」、「松が崎」とするか議論百説が出て決まらず、白庵和尚の意見を求めたそうです。白庵は「生物には、生死栄枯あり、公が命を奉じて、この城を築かれることは、盛事大名である。成功高大の義を取って『髙﨑』とされては」と答え、「髙﨑」と命名したそうです。これにり、龍廣寺の山号も、「髙﨑山」とするよう命ぜられたとか。高崎の地名にはそんな由来があったのですね。今日は高崎駅の方から歩いてきたのですが、山門まで来て、お寺が17号線に接していると知り驚きました。17号線を走っているときは気が付きませんでしたが、Googleマップで見ると確かに本堂が見えますね。お彼岸ということもあり、墓地にはお参りの方も多くいらっしゃり、境内はお線香の良い香りがしていました。