戦国の地に近い珍スポット。
山村修理の墓の特徴
姫街道の東側では、軽自動車でもアクセスが難しい場面があります。
山村修理の墓は、戦国時代末期の歴史的背景を持つ場所です。
ダイダラボッチの池からのアクセスが便利ですが、狭い道が続きます。
姫街道の東側からは、道が狭く木々が倒れていたりして、軽自動車でも間近までは難しいかな?西側のダイダラボッチの池から行くのが良いかも。今は木々で覆われて、堀川城はのぞめません。
「ダイダラボッチの池」の方から行けば、近く迄車で行けますが、急な狭い道です。
| 名前 |
山村修理の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
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*現地看板*山村修理(やまむらしゅり)の墓戦国時代末期、気賀、中川は今川氏と徳川氏の勢力の境界地域でした。 気賀の領主で今川方の新田友作は、かつて今川義元の家臣であった尾藤主膳、 山村修理等とともに、 永禄10年から11年 (1567~68) にかけて堀川城を築きました。しかし遠州攻略を目指す徳川家康の攻撃により、永禄11年3月には落城してしまいました。永禄11年12月、徳川家康は、駿河に進攻しようとする武田信玄に対抗し、ふたたび遠州攻略を企てました。 このときの功績により、後に「井伊谷三人衆」と呼ばれたのが菅沼二郎右衛門、鈴木三郎太夫と、後の旗本近藤家を築いた近藤石見守です。遠州に攻め入った家康に対し、尾藤主膳、山村修理等は一揆を企て、内山党を始め地元民男女1500~1600人とともに堀川城に立てこもりました。しかし永禄12年(1569) 3月27日、家康軍の攻撃の前に1日で落城、捕虜700人が呉石の塔の下で処刑されたと言い伝えられています。落城のときて逃れた山村修理は、この場所で燃え落ちる堀川城を見ながら切腹したと伝えられています。かつてここには松の古木があり、「修理殿の松」と呼ばれていました。細江町教育委員会。