道鏡塚に佇む歴史の影。
道鏡塚の特徴
歴史の授業で名を馳せる道鏡の塚がある場所です。
龍興寺との関係が深い歴史的な地点です。
直径約38mの円墳が今もはっきり残っています。
書にて「道鏡塚」をしらべてみます。__________道鏡の墓についての記述です。❶【参考 下野国志 1848年】弓削道鏡の墓(下野薬師寺の)同じ場所にあります。高さが3メートル(一丈)あまりの塚(盛り土)です。ただし、そこには古い比丘塔(びくとう・僧侶の石塔・供養塔)があります。道鏡は、出家する前の俗世での氏を弓削(ゆげの)氏といい、河内国(大阪東部)の出身の人です。孝謙天皇の格別な寵愛を授かって、大政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)という位に任じられました。しかし天皇が崩御された後、造薬師寺別当になって、この国へ下ってきました。光仁天皇の御代である宝亀三年(772年)の壬子(みずのえね)の年の四月に亡くなった、と歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されています。______________大政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)という位にまでついた道鏡でしたが、皇位つくという野心のせいで、薬師寺の別当として流罪されました。高貴なものの葬儀ではなく、盛り土という、庶民の埋葬によって葬られたようです。❷【参考 大日本史 昭和4年版】三年(宝亀三年・772年)、道鏡はその貶所(へんじょ・流された場所である下野薬師寺)で亡くなりました。庶人(しょにん・一般の庶民)の礼をもって、これを葬(ほうむ)りました。以上は、『続日本紀』に基づいて記載されています。とあります________________道鏡の行いについて書かれています。文の最後の所に道鏡と仲の良かった称徳天皇(2回目の天皇在位の時の名)は孝謙天皇(1回目の天皇在位の時の名)であり、聖武天皇の皇女であったとあります。❸【参考 東大寺要録巻第六 下野国薬師寺 1100年程度】『続日本紀』を調べてみますと、『日本紀略』などの書籍には次のように記されています。神護景雲三年(769年)九月、称徳天皇は、皇位を道鏡に譲ろうとお思いになり、和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐八幡宮(大分県)へと遣わして、神様のお告げを伺わせました。清麻呂が帰京して「道鏡を天皇にしてはならない」という神のお告げの趣旨を奏上するに至ると、道鏡は激怒して、清麻呂を大隅国(鹿児島県)へと流刑に処しました。宝亀元年(770年)八月、天皇は河内国の由義宮(大阪府八尾市)へ行幸されました。その際、道鏡を側に召し仕えさせて、お食事を共にされました。そのなれなれしく親密な様子は、行き届かないところがないほどでございました。六月、天皇は病気になり床に伏せられました。八月四日に崩御(ほうぎょ)されました。御年(おんとし)は五十三歳でございました。大和国添下郡佐貴郷(奈良市山陵町周辺)にある高野山の御陵(みささぎ)にお葬り申し上げました。この天皇のことを御陵の地名から「高野天皇(こうやてんのう)」とお呼び申し上げるのです。同じ年、白壁王(しらかべおう・光仁天皇)が即位され、道鏡を罪人として下野国薬師寺の別当(住職)へと下されました。その三年後(宝亀三年・772年)の四月、道鏡は下野薬師寺において病死いたしました。さて、ここで「高野天皇」と申し上げましたのは、聖武天皇の皇女でいらっしゃいます。父である天皇からの譲位を受けられて、最初の在位期間は十年でございました。その後、大炊王(おおいおう・淳仁天皇)に皇位を譲られましたが、お仲が険悪になってしまいました。そのため、最終的には大炊天皇を淡路国(兵庫県淡路島)へと流刑に処されたのです。高野天皇は、再び自ら皇位にお就きになり、二度目の在位期間は六年でございました。最初の即位時の諡(おくりな)を「孝謙(こうけん)天皇」と称し、再び即位された際の諡を「称徳(しょうとく)天皇」と称し申し上げるのです。
称徳天皇の寵愛を受け、天皇になれたかもしれなかった僧・道鏡の墓がこの龍興寺で密かに佇んでいる。正直三大悪人に挙げられるほどでもないと思うが、隣の「道鏡を思う会」監修の紹介文では一切貶す文言がなく、顕彰一色なのも正直どうかと思う😅どちらにしろ、歴史を感じさせる一コマと言えよう。
龍興寺(りゅうこうじ)は、真言宗智山派の寺院です。下野薬師寺の南方に立ち、同寺の別院とされています。寺伝では奈良時代の天平宝字5年(761)、鑑真が唐の龍興寺の舎那殿壇の法を移し「生雲山龍興寺」として開基したと伝えられています。境内には「道鏡塚」として、直径約38mの円墳があります。出土の埴輪から6世紀末頃に作られた古墳です。この古墳に追葬の形で道鏡が葬られたと伝えられています。道鏡(どうきょう:文武天皇4年(700)-宝亀3年(772))は、奈良時代の僧侶です。禅に通じていたことで知られていました。病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の病を看病して以来天皇に信を受けました。764年、太政大臣禅師に任ぜられました。翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進しました。道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する藤原氏らから反感を受けました。称徳天皇が崩御すると、道鏡は神護景雲4年(770)、下野薬師寺別当を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没しま。
歴史の授業に出てきた道鏡の塚。歴史好きの人は訪れてみたい所。授業では下野薬師寺に・・と習いましたが、墓はこちらの薬師密寺、つまり龍興寺にあります。
龍興寺と言う歴史有るお寺さんの一遇に、道鏡塚が有ります。塚自体は木々が繁茂していて、近づけないのですが、お寺の境内は綺麗に整備され、方々に案内板が掲示されています。お掃除中のご住職と思われる方に、道鏡塚を見たい旨お話ししたら、快く了解してくださいました。卒塔婆も有り、道鏡塚を守る会の皆さんで、今でも手厚くお祀りされている事を実感致しました。
道鏡が左遷され没した場所。
道鏡が失脚後、ここに下野薬師寺に送られ、没した後にここに葬られたそうです。
直径約38mの円墳が残っている。出土の埴輪から6世紀末頃に作られたと推定される古墳に追葬の形で道鏡が葬られたと伝える。下野市指定史跡。
道教禅師のお墓です。
| 名前 |
道鏡塚 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
弓削道鏡が左遷されてこの地で没したのですね。境内には鑑真三戒壇もあります。